ケータイ辞書JLogosロゴ 喜多村(近世)


兵庫県>黒田庄町

 江戸期〜明治22年の村名。播磨国多可郡のうち。江戸初期は北村とも書いた。元和年間に新田が開発されたが,加古川の洪水によって荒れ,宝永4年当村の儀兵衛によって再開発が行われたという。江戸期は福島新田と呼ばれ当村の一部として扱われ,明治期には字福島となった(黒田庄町史)。はじめ姫路藩領,寛永16年幕府領,享保6年幕府領姫路藩預り地,寛保2年幕府・三草藩の相給,延享3年からは三草藩・一橋家の相給。村高は,「正保郷帳」793石余うち田717石余・畑76石余,なお北村領内として福島新田村19石余,「元禄郷帳」779石余,「天保郷帳」「旧高旧領」ともに780石余。明和8年の村明細帳によれば家数77うち高持76・無高1,人数284,牛21,医師・大工・野道具鍛冶・屋根葺・桶屋・畳屋・馬喰・商人各1。享保12年の年貢米免定帳によれば,年貢・諸役は川役・鉄砲役・柏役・山年貢・六尺給米・御伝馬宿入用米。水利は,東部丘陵地は門柳川と溜池,西部川沿いの低地は加古川の井堰用水を利用したが,丘陵地は干害,低地は水害が多かった。明和年間に木綿織・行商などが行われ,幕末には酒造業も営まれた(黒田庄町史)。神社は,天神社・諏訪大明神・稲荷神社2。寺院は,臨済宗妙心寺派霊松山福聚寺。同寺は享保年間に前身の福自庵に天満宮社房梅松庵・園城山王子庵を合併し,延享2年現在名となった(同前)。明治5年の村明細帳によれば家数64・人数256。同6年幕末から開かれていた上月玄栄の寺子屋に小学校を開校。同12年戸長役場開設。同年の戸数132・人口563,田66町余・畑8町余・宅地5町余・山林139町余・ほか1町余(同前)。同22年黒田庄村の大字となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7390155
最終更新日:2009-03-01




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