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- 北町(近世)とは
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北町(近世) 江戸期~明治9年の町名須賀川宿4町の1つ中通り中部,阿武隈【あぶくま】川と釈迦堂【しやかどう】川との間の台地に位置する岩瀬郡のうち古くは牛袋【うしぶくろ】荘川中郷に属したというはじめ会津領,寛永20年からは白河藩領奥州街道須賀川宿整備に伴って,須賀川城三の丸・搦手・守谷館に下宿の町屋を移し北町とした(野川本藤葉栄衰記)村高は,文禄3年の蒲生高目録では500石,古領高長では527石,「元禄郷帳」「天保郷帳」では中町・本町・道場町とともに須賀川村として記載されている寛保2年の家数127,人口男312・女259,馬15町の東中央部から三春街道が分岐する地点,および釈迦堂川北岸に白河藩領の牓示杭があったという天台宗行法寺は,羽黒派修験岩瀬・石川両郡行堂支配錫杖頭を勤め,同寺の秋の大祭秋葉堂火祭りが盛大に行われたと伝えるまた名刹曹洞宗長禄寺は二階堂家菩提寺で月窓派130か寺の本山臨済宗普応寺はもと稲村にあり,結城親朝が稲村城に居城した際の開基と伝えるほかに天台宗密蔵院などがある明治6年須賀川医学校が本町の本陣跡から当町に移転開設された同9年中町・本町・道場町と合併して須賀川村となる |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
北町(近世) 江戸期~明治22年の町名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
北町(近世) 江戸期~明治8年の府内城下の町名町組松末町11町の1つ松末庄屋支配に属す府内城の東南にあり,北は御屋敷,南は中横町,東は大分川に通ずる船入深川,西は善功寺に接する貞享元年の「万覚」によれば当町の南頬46間・北頬50間4尺・道幅は2間元和9年から慶安3年まで,萩原に流配されのち津守【つもり】に移された松平忠直監察のため,幕府が設置した府内監察使屋敷があった明治4年大分県に所属同8年1月現在は松末町に属す同22年以降大分町大字大分字北町となり,以来通称地名とし存続昭和20年7月16日夜および8月10日の米軍空襲により焼土となる昭和39年の新住居表示で大分市大手町3丁目の一部となる... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
北町(近世) 江戸期~明治10年の町名柳川城下の1町南流して有明海に注ぐ沖端川左岸に位置する伊能忠敬の「測量日記」の文化9年10月14日の条に,「又南町・北町より初,北町右制札前に終わる,五十五間,総測一里一十一町四十三間四尺,昼休北町用達堤九左衛門」とある当町には藩の御用達がいた文禄3年稲荷神社が建立され,明治8年水天宮が合祀されて現在に至る5月の例祭には三神丸という船舞台が,川下りの船着場がある沖端のクリークを上下し,囃子と芝居が披露される明治10年稲荷町の一部となる現在の柳川市稲荷町のうち... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」