ケータイ辞書JLogosロゴ 口銀谷町(近世)


兵庫県>生野町

 江戸期〜明治22年の町名。但馬国朝来郡のうち。明治初年には生野を冠称。もと豊臣氏蔵入地。慶長5年からは幕府領。郷帳類には見えない。生野代官所の管轄。銀山廻7町の1つ。「天保郷帳」では生野銀山廻42石余のうち。猪野々村を除くと他の銀山廻5町には耕地がほとんどないところから,大部分は当町の高であろう。銀山廻改帳によると,当町の田畑ともに反別1町5反余。享保15年の家数251・人数1,215(銀山宗門改帳)。鎮守は姫宮神社,ほかに愛宕社・神明社・井口稲荷神社がある。寺院は,寺町に臨済宗禅操寺・浄土真宗本願寺派金蔵寺・真宗大谷派教徳寺,浄土宗東西寺・西福寺・来迎寺・称名寺(昭和20年廃寺),日蓮宗本行寺・妙詮寺,北に臨済宗長源寺,町中に浄土宗玉翁院の11寺。玉翁院はもと東照寺と称し,歴代将軍の位牌を安置する東照宮の別当寺で,寺領10石余を有した。金蔵寺には県文化財の古鐘,来迎寺には芭蕉翁の蓑塚がある。古くから銀山廻として,また代官所の膝元で特殊な環境下にあり,一部の農家を除いて住民の大部分は銀山に関係があった。生野で精製された銀の全量は,代官所で買い上げられ,銀の横流し防止と,人や物資の出入りの監視のため,街道・間道を問わず要所に番所を設け,厳重な監視が行われた。番所のうちでは播磨口,但馬口の両番所が最も重視された。幕府時代の末期を飾った太盛山の山師丹波屋足立家の住宅が代官所の近くにあり,町の年寄でもあった。文久3年討幕を旗印に挙兵した生野の変は当地が舞台となった。天保13年代官大草太郎左衛門が出石【いずし】藩の儒者桜井東門を招き,尊性堂を開校(生野史)。明治元年銀山が政府に接収されて代官が追放となり,代官所が政庁に変わった。猪野々村の工場の建設がほぼ完了した同8年,その一画が当町に編入された。同22年生野町の大字となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7390481
最終更新日:2009-03-01




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