ケータイ辞書JLogosロゴ 神代郷(中世)


兵庫県>三原町

 鎌倉期に見える郷名。三原郡のうち。元久2年4月の淡路国司庁宣に「東神代八木両郷」および「榎列并西神代之荒野」とあり,東西の神代郷の地を開発して一二宮法華桜両会舞楽料田に充てることとされている(護国寺文書)。貞応2年の淡路国大田文には三原郡国領として「東西神代郷〈前地頭前守護所中務入道殿,当守護所領〉」と記され,地頭は淡路守護佐々木経高であったが,承久の乱後は新守護長沼宗政の所領となった。同大田文では東神代郷は「東神代保田廿六町五反四十歩」とあって東神代保とも称し,田地の内訳は余田5町7反・残田20町8反余,ほかに畠24町1反余がある。また,西神代郷は「西神代郷四十八町三百卅歩」とあり,田地の内訳は除田23町4反余・残田24町6反余で畠22町5反余もある。同郷内には志知・湊村も属した。正安元年12月6日付将軍久明親王家政所下文によれば「同国東神代郷・西神代郷〈富永名者,有夜叉一期之後,可知行之由,載有夜叉所帯譲状〉」とあり,両郷は守護長沼宗泰から嫡子宗秀に譲られたことが知られる(園城寺文書/鎌遺20313)。西神代郷の富永名は現在の三原町市新の字飛永に当たるが,同地の中世城館跡は富永越前守居館であったという(味地草)。下って室町期には応永29年11月13日付久米家守年貢米引文に「神代 大工」,年未詳の八幡宮置米寄進目録には「神代 衛門太郎」が見え(護国寺文書),また南淡町諭鶴羽神社の天文年間の北門板碑には「神代庄工大夫」と刻まれているが(県神社誌),これらの神代は東神代を指すと考えられる。なお,西淡町志知鑪【しちたたら】の声明寺両界曼荼羅の天文17年背書に西神代と見えるという(三原郡史)。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7390560
最終更新日:2009-03-01




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