ケータイ辞書JLogosロゴ 栗栖荘(中世)


兵庫県>新宮町

 平安末期〜戦国期に見える荘園名。播磨国揖西【いつさい】郡のうち。「後二条師通記」永長元年6月4日条に,白河院が当荘預に麻生清任を補任したことが見え,白河院領であった(古記録)。当荘は皇室領として伝領され,嘉元4年6月12日の昭慶門院(憙子内親王)御領目録に,山城安楽寿院領播磨国「栗栖庄〈北白川姫宮〉」が見える(竹内文平氏所蔵文書/鎌遺22661)。南北朝期には大覚寺統に伝えられ,正平6年3月14日,後村上天皇から熊野新宮へ当荘地頭職が寄進されている(熊野速玉神社文書/大日料6-14)。しかし,文和4年3月26日の播磨国矢野荘公田方年貢并雑物等算用状によれば,坂本から当荘へ兵粮米が運ばれており,すでに赤松氏の勢力下に組みこまれていたものと思われる(教王護国寺文書1)。下って戦国期,天文12年と天正2年に当荘内平野村・大屋村の間で水争いが起きたが,竜野城主赤松氏はどちらの場合も平野村の言い分を認めている(平野村文書)。なお,文禄3年6月5日秀吉が小出吉政に与えた知行方目録には,播州揖西郡栗栖村2,508石6升が見える(金井文書/竜野市史5)。また,天正16年8月の奥書をもつ「赤松記」によると,嘉吉の乱で敗れた赤松満祐父子の切腹した城山は,「くるすと申所の上」にあると記されている(群書21)。明治期の東栗栖村・西栗栖村に比定される。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7390644
最終更新日:2009-03-01




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