ケータイ辞書JLogosロゴ 久留美荘(中世)


兵庫県>三木市

 鎌倉期〜戦国期に見える荘園名。播磨国三木郡のうち。倶留美・具留美とも見える。三木市久留美周辺。正応6年3月17日の九条家文庫文書目録に「久留美」と見える(九条家文書5/図書寮叢刊)。徳治3年正月1日九条忠教は譲状に「浄土寺入道相国〈愚老外祖父〉譲与具留美庄内,入道譲進故北政所之家地〈副譲状〉,南禅尼一期之後,愚老可伝領也〈副北政所譲状南禅尼状〉,件家領……不洩一所,悉直所附属大納言房実卿也」と記し,くれぐれも一期分であることを忘れぬようにと念を押している(同前1/同前)。また,忠教は嘉暦2年9月27日に再び「具留美庄者老北政所之後可譲若公」と譲状をしたためている(同前5/同前)。なお,九条家に伝領されたのは領家職であった。この久留美荘はやがて春日社に寄進される。年月日未詳の大乗院家知行諸国荘園目録には「倶留美庄自九条報恩院関白殿孝覚僧正相伝,仍寄進春日社了」とある(三箇院家抄2/纂集)。文安4年,久留美荘の代官斎藤若狭守が前年度の年貢を未進したため,春日社は祭礼を実施することができず困り果てているが,この年の領家年貢は春季祭礼分3,000疋・冬季祭礼分4,000疋,合計7,000疋であった(建内記/古記録)。これ以後,久留美荘は春日社領として続き,大永2年10月までその存在が確認される(春日社司祐維記/大日料9‐16)。なお,14世紀頃には地頭職は細分されていたようで,嘉元元年9月の藤原秀綱請文では秀綱は「久留美庄内跡部村地頭」にすぎず(春日神社文書1),延慶元年近行名について雑掌覚如から新補地頭であるのに本補地頭のように振る舞ったと訴えられ,和与中分することになった地頭真々部又太郎成正は「当庄一分地頭」であった(大橋文書/鎌倉幕府裁許状集)。最近三木市久留美からいくつかの窯跡が発見されており,そのうちの1つからは京都尊勝寺出土瓦と同范のものが出土している。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7390659
最終更新日:2009-03-01




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