ケータイ辞書JLogosロゴ 黒崎(中世)


兵庫県>御津町

 戦国期に見える地名。播磨国揖西【いつさい】郡のうち。「播州英城日記」によれば天正元年正月5日改回分知に黒崎192石余南柳瀬勘四郎,132石余市橋伝兵衛とあり,合わせて324石余は英賀城主三木氏によって支配されていた。文禄3年6月5日の小出吉政知行方目録に黒崎村と見え,かた村・井津村・庄内村とともに612石余とあり,この時期には竜野城主小出吉政の支配下にあった(金井文書/竜野市史5)。なお,「播磨鑑」によれば,当地に篠井清水があり,室町期に賀茂荘黒崎山城主在田肥前守朝則がこの清水を讃えて「古しへもしのぶ思ひを汲みて知る深きしの井の清水つきせぬ」と詠んだという。元弘年間に築城という基山城には赤松円心の弟萩原孫三郎光則が,武山城にはその子萩原孫四郎敦則が1,300騎を率いて海辺の敵を防いだという。在田朝則が居城したという黒崎山城,赤松教弘,のちに肥塚和泉守が居城したという黒崎城,元亀年間に明石備前守正景が居城したという投石城などがあったというが,基山・武山いずれの城を指すのか不明である。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7390702
最終更新日:2009-03-01




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