ケータイ辞書JLogosロゴ 黒田荘(中世)


兵庫県>黒田庄町

 平安末期〜戦国期に見える荘園名。多可郡のうち。西光寺所蔵の法華経巻1は,その奥書によれば承安4年9月15日比丘行西が「黒田御庄石原村得笠寺」で書写し終えたものである(平遺題跋編2739)。正治2年2月28日の吉田経房処分状案によると,「播磨国黒田庄〈平等院領〉」は殿下渡領であり(御遺言条々/広島県史古代中世資料編),正応3年宝張布1反,某寺修理の際には900疋を負担している(近衛家文書/鎌遺17513・17514)。また,文永2年11月3日の住吉神領杣山四至并造替諸役差定書には,「黒田庄内 紙十五帖大豆二斗白米二斗 秣稲五束十束 菜三種 平等院領」と見える(大川瀬住吉神社文書)。当荘は以後も殿下渡領として存続,嘉元3年4月および暦応5年正月の摂籙渡荘目録に年貢300石と見える(九条家文書1/図書寮叢刊)。康永2年7月には,足利尊氏の奉公人石原蔵人入道寂任が当荘下職を管領していた(八坂神社記録1/続大成)。応永26年正月25日,村上盛弘は当荘代官職履行の請文を幕府奉行人へ提出したが,同文書によれば,当荘の年貢は毎年正月に10貫文,11月に10貫文,あわせて20貫文を納めることになっていた(九条家文書2/図書寮叢刊)。文明11年,近衛政家は渡領のうち当荘の支配を冷泉侍従宰相に任せたが,後日能勢荘を与えて当荘を召し返している(後法興院雑事要録/赤穂市史4)。「宣胤卿記」によれば,当荘箕公事に西口分と東口分があり,東口分は年未詳6月27日中御門宣胤の知行となった。加古川沿いの地で,現在の黒田庄町に比定される。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7390709
最終更新日:2009-03-01




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