ケータイ辞書JLogosロゴ 香山保(中世)


兵庫県>新宮町

 南北朝期〜戦国期に見える保名。播磨国揖東【いつとう】郡のうち。中原師守の日記「師守記」の暦応4年2月14日条に「今日香山保精料残且十結沙汰進之」と見え,当保は中原家領であった(纂集)。康永3年当保の請料は15貫文で,貞治元年11月彦三郎なる人物が中原家の命を受けて播州に下り,同年12月当保から替銭で計8貫文が送られてきている(師守記/同前)。また,貞治5年10月16日には,翌日の元高房下向に備えて当保明年請料契約状を師守が用意している(同前)。応仁元年11月28日,小槻晴富は後花園院から当保の領知を任されたが,その院宣に「涌泉(泉涌)寺領播磨国香山保」と見え(案文消息集/大日料8-1),当保の本所は泉涌寺であった。文明13年9月には,当保内道久名・重武名・刑部三郎名が上月満吉の知行となっていた(上月文書/姫路市史史料編1)。ところで,地名としての香山は鎌倉期から見え,正応2年5月日の快円源有家連署配分状案に,有家分の檀那として「佐与,香山,田原」と記され(祇園社記続録10/鎌遺17026),貞和3年6月24日の刑部守延坊舎等譲状にも「香山」と見える(広峰文書)。また,天正9年3月18日秀吉が浅野長政に与えた揖東郡の知行目録には「香山上下」1,376石4斗と見え(浅野家文書/大日古),香山が上下に分かれていたことが知られる。なお室町初期の成立と思われる「峰相記」によれば,当時天台宗の高僧理教上人が,交衆を遁れて香山の古堂に籠り念仏したという(続群28上)。香山と称されたのは現在の新宮町香山・篠首・上笹・吉島・宮内・下笹・下野・新宮で,香山から上笹にかけてが香山上,吉島から新宮にかけてが香山下とされ(新宮町史2),香山保は宮内を中心とする地域に比定される(同前5)。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7390927
最終更新日:2009-03-01




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