ケータイ辞書JLogosロゴ 児屋郷(古代)


兵庫県>伊丹市

 平安期に見える郷名。「和名抄」摂津国武庫郡八郷の1つ。東急本・高山寺本ともに訓は「古也」。安元元年に成立した「行基年譜」によれば天平3年行基は「島(崐)陽施院」を設立して近在の窮乏農民を救済するとともに,「崐陽上池,同下池」および各々延長1,200丈にわたる「崐陽上溝,同下池溝」などを築造して農業の振興に尽力したという。これらの施設は「河辺郡山本村」あるいは「河辺郡山本里」に所在したと記されるが,行基の崐陽上池はほぼ現在の昆陽池(伊丹市昆陽池3丁目)に当たるものとされている。また,行基は西国街道を調庸物運搬などで往来する農民を援助するため,別に「崐陽布施屋」を「河辺郡崐陽里」に設けたともある(続々群3)。古くは当郷と山本郷の郷域に出入りがあり,所属郡にも変遷があったらしい。行基の昆陽施院はのちの昆陽寺であるが,平安中期の天慶8年7月28日付摂津国司解では数百人の人々に担われた志多良神の神輿3基が豊島郡から島下郡に移動する途中,「河辺郡児屋寺」に着いたと述べている(本朝世紀)。当地は古来から歌枕の地として知られ,「昆陽野」「昆陽池」「昆陽松原」などが歌に詠み込まれた(和歌色葉上・八雲御抄巻5)。古くは曽禰好忠の「曽丹集」に「蘆のはに隠れてすめば,難波女のこやは夏こそ涼しかりけれ」,「後拾遺和歌集」所収の能因法師の歌に「津の国へまかる道にて」として「あしの屋のこやの渡に日は暮れぬいづち行くらむ駒にまかせて」とあるほか,「金葉和歌集」の藤原仲実朝臣の歌「しながどり猪名のふしはらかぜさえてこやの池水氷しにけり」など枚挙にいとまない。平安末期の治承4年,平清盛は福原遷都を断行したが,「玉葉」同年6月15日条に「改和田都以小屋野,可為其地,早遣木工寮,可打定其地」と見えるなど遷都の過程で当地が有力な候補に上ったことが知られる。次いで,同年9月には追討使として福原新都を出立した平維盛の軍勢が昆陽野に宿営,関東に向かった(源平盛衰記巻23)。平家都落ちの後,入京した源範頼・義経の軍は寿永3年2月4日に京都を進発,その夕暮,源氏の大手は昆陽野に陣を取って来るべき一の谷合戦に備えたという(平家物語巻9・源平盛衰記巻36)。
解説文を自分にメール
メアド:Milana@docomo.ne.jp

(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7391177
最終更新日:2009-03-01




ケータイ辞書 JLogosトップ