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「西条」の関連ワード⇒ 赤田組(近世) 飯詰組(近世) 石浜村(近世) 

西条


加古川下流域左岸に位置する...

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[最終更新日:2009-03-01/JLogosid:7391249]
関連項目: 赤田組(近世) 飯詰組(近世) 石浜村(近世) 

角川日本地名大辞典(旧地名編)

日本地名大辞典に収録されているものの中から、現在以前のものを再編。

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西条藩(近世)

江戸期の藩名在所は新居郡西条陣屋親藩(連枝)・小藩,3万石寛永13年伊予河野氏の庶流といわれる一柳直盛が,伊勢(三重県)神戸【かんべ】5万石から伊予国新居郡西条6万8,000石へ増転封となったが,就封の途中大坂で病死した彼の遺領のうち,宇摩・新居・周布3郡内で3万石を,長男直重が継承して西条に入封し,西条藩(外様大名)はここに成立する直重は就封すると直ちに西条平野のほぼ真中海辺寄りの場所に,周囲40町余の濠をめぐらした東西2町4間・南北2町15間の平地に陣屋を建設し,濠の東・西側に家中屋敷,濠の東側に町人町7町を配置し,陣屋町の創設につとめるいっぽう,正保5年には領内検地を実施するなど,初期藩政の基礎を固めたしかし2代藩主一柳直興は,大保木【おおふき】山5か村民らの銀納請所願を拒否し,頭取中奥山村庄屋らを打首として騒動を弾圧したこの領内仕置の不手際が参勤交代遅参などと重なり,寛文5年改易除封となり,当藩は一時幕府領となった寛文10年紀伊(和歌山県)和歌山藩主徳川頼宣の次男松平頼純が西条3万石に封ぜられ,以後頼致,頼渡,頼邑,頼淳,頼謙,頼看,頼啓,頼学,頼英の10代,約235年にわたって在封したなお松平氏は親藩で江戸定府であった寛文4年の一柳西条領は,新居郡内38か村・宇摩郡内2か村,計40か村で高2万5,000石であった宝永元年西条領の新居郡内6か村が幕府領となり,代地として宇摩郡内8か村が西条領となった別子銅山振興策による替地であった幕末の西条領3万石の内訳郡村は,新居郡52か村,宇摩郡15か村,周布郡3か村,計70か町村であった藩はこの村々を宇摩郡では東寒川【ひがしさんがわ】と土居の2つの村組に,新居郡では宇高【うだか】(のち郷【ごう】組となり,沢津【さわづ】組となる)・中村(のち船木【ふなき】組となり,下泉川組となる)・大町【おおまち】・氷見【ひみ】の4つの村組に編成し,各村組には小庄屋を統率する大庄屋を置き,郡奉行をして監督させた西条藩の家臣団の知行制度は,50石取以上が知行取であり,彼らは地方知行制をしいていたが,物成決定権など,すべて藩庁に握られており形骸化して,事実上の蔵米知行であったまた家臣の中には宗家紀州から送り込まれた者もあり,彼らの知行地は,紀州にも持っているこのことは藩政が本家の指導下にあったことをうかがわせる干拓適地の多い燧灘沿岸では,藩初から大小の新田が開発され,元和年間干拓の西泉新開,承応・明暦・万治年間の頃の半弥新開が造成された寛文10年紀伊徳川家の分知5万石から3万石減知のうえ就封した松平氏は,数代にわたって宗家から減知分2万石相当の合力米を受けていたが,宗家の財政事情から不安定であったそのため当藩は発足当初から新田開発を藩是として財政の安定を図った西条城下の豪商による近江屋新開・花屋新開・三河屋新開,大庄屋など豪農による恵美須【えびす】新田などが造成された享保8年以降新居浜平野北東部干潟に,備後から招いた天野喜四郎家5代により百数十年にわたって造成された多喜浜塩田と安永7年から5か年かけて松平家の私財と郡奉行竹内立左衛門の見立によって,加茂・中山の両河口に開発された東西730間・南北1,470間の禎瑞【ていずい】新田は有名である明治2年10月の調査によると,当藩の高4万801石内前々拝領高3万石,本田込高3,149石余,新田改出高とも7,651石余,ほかに209町4反余氷見村西泉村下分(禎瑞新田)とあり,新田の比重が大きいことがわかる当藩内は沃地と水利の便に恵まれ,米・麦の生産が多かったが,特産として新居浜浦の魚類,多喜浜の塩,西条神拝【かんばい】村での名泉を利用し,江戸の浮世絵の紙となった奉書紙,宇摩郡上分村の紙などがあった「藩制一覧」に見える明治3年調査の藩情は,正税1万8,198石余・雑税954石余,在町戸数1万1,281軒・人口5万4,400人,士族292戸・1,501人,卒族448戸・1,977人明治4年廃藩後西条県となる

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

西条村(近世)
 江戸期~明治22年の村名...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

西条荘(中世)
 鎌倉期から見える荘園名...

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西条村【さいじょうむら】
(中世)鎌倉期から見える村名...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典」

西条村(中世)
鎌倉期から見える村名新川【にいかわ】郡堀江荘のうち堀江荘は文治2年6月16日より行われた京都祇園社の六月会料所として,この時寄進されているが,伝領関係の相違により,庄役12貫文の六月会法会料所たる堀江荘と,同5貫文の楽人禄等料所たる梅沢・滑川【なめりかわ】・小泉3か村とに区分されている(社家条々記録/県史中)この区分は以後も継承されるが,このうち滑川村ははずされ,代わって西条村が見えるようになる寛元2年12月24日の「関東下知状」には「感神院御領越中国堀江庄内西条村雑掌藤原康久与地頭代左兵衛尉国継法師 法名心仏,相論年貢事」と見えるこの相論は心仏が仁治2年7月以降わずかに6石8斗の年貢を納めただけで,その他の年貢を抑留したとして康久が訴えたものであるこれに対して心仏は,以前西条村は小泉村内の小村であり,前預所円印法橋の時は両村共に一円知行しており,年貢納入が簡単であったところが近年預所職が数子に分割譲与され煩雑となったので,先例のように一括して小泉村領家方に納入してあるだから康久は領家方から分配してもらえと抗弁している結局,心仏の行為を不法とする裁決が下されている(前田家所蔵文書/県史中)建長8年6月5日の「関東御教書案」で幕府は小泉・梅沢・西条3か村を中分するため牓示を打つように命じ,6月12日の「関東請文案」で申請通り中分を認める旨を京都へ返事しているこの3か村の地頭職は越中守護名越氏に相伝されていたらしく,元弘末年には一族の江馬公篤が有していたことが元弘3年11月19日の「後醍醐天泉綸旨案」によってわかる同綸旨によりこの地頭職は祇園社に付され,建武2年2月17日官宣旨により,同地頭職は執行静晴の門葉に相承されることになった(以上,八坂神社文書/県史中)しかし,南北朝の争乱,ことに観応の擾乱によって,滑河や高槻など近村に要害や軍陣が設けられるようになると,武士の侵略により荘務に支障が起きてくる観応3年9月18日の「足利義詮御教書」では,3か村の領家職に支障があるので,土肥中務入道等の違乱を停めるよう守護井上俊清に命じている(井上文書/県史中)しかし,武士の押妨が止まないため,貞治2年11月14日の「室町幕府引付頭人奉書案」を下し,伊丹勘解由左衛門尉や須田兵庫入道たちの濫妨を停めるよう命じ,同3年9月4日の「室町幕府引付頭人奉書案」では,土肥の押領を停め領家職惣領方半分を雑掌に返すよう命じているしかし,これも実質的には行われなかったらしく,(応安4年)4月8日の守護斯波義将書状で再び半済の遵行が命じられているこうした事態に対して祇園社は貞治3年4月15日の「祇園社領堀江荘所務職契状」で,これら3か村の年貢・公事について大町立者と請負の契約を結び収納の実をあげようとしている(以上,八坂神社文書/県史中)しかし,祇園社の知行は及ばない状態が続いていたらしく,権少僧都顕深は室町幕府奉行人松田貞秀に対し堀江荘以下諸村の遵行沙汰を依頼する文書も見られる(年欠8月21日権少僧都顕深書状/八坂神社文書)現在の滑川【なめりかわ】市のうち...

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西条町(近世)
 江戸期~明治22年の町名...

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西条(近代)
 明治22年~現在の大字名...

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西条藩【さいじょうはん】
(近世)江戸期の藩名...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典」

西条藩(近世)
江戸期の藩名江戸中期から伊勢国河曲【かわわ】郡西条【にしじよう】(鈴鹿市西条)周辺その他を領有した譜代極小藩現在の地名は「にしじょう」であるが,「さいじょう」と通称されることが多い元文年間に河曲郡南林崎村(鈴鹿市南林崎)に代官を置いたので南林崎藩とも呼ばれるまた,天明5年上総国市原郡五井村に居所を移したため以後五井藩と称し,天保13年からは下野国都賀【つが】郡吹上村に居所を移したため吹上藩と称したなお,本書では便宜上江戸期を通して西条藩の名称を用いた紀伊徳川家の家臣有馬氏倫が享保元年徳川吉宗の将軍就任により旗本に復し,側御用取次となり,同年伊勢国三重郡で1,300石を得,翌年下野国芳賀郡で1,000石の加増,さらに同11年伊勢国三重・河曲・多気および下野国河内,上総国市原の各郡内で7,700石を加増され,同12年領地の朱印状を得て大名となり立藩有馬氏は久留米藩主有馬氏の支流で,氏倫の祖父吉政が徳川頼宣に仕官して以来紀伊徳川家の家臣となった藩主は氏倫(~元文元年)のあと氏久(~元文9年)・氏恒(~元文10年)・氏房(~安永2年)・氏恕(~天明3年)と相続歴代藩主は定府して伊勢に居所を置かず,林崎の代官棚瀬氏が代々伊勢領7,700石を支配氏恕は天明元年上総国市原郡五井村に陣屋を構え,有馬氏は定府大名から半年ごとに参勤交代を行う大名に昇格した氏恕のあと藩主は氏保(~寛政2年)・久保(~文化12年)・氏貞(~天保4年)・氏郁(~文久2年)と継いだが,氏郁の代の天保11年に市原郡内の4,400石余を伊勢・下野国内に領知替され,同13年下野国都賀郡吹上に居所を移した氏郁の跡は氏弘が継ぐ廃藩時の表高(公称高)1万石に対し内高は1万3,700石藩領は廃藩時には下野国都賀・芳賀・河内3郡,伊勢国三重・河曲・多気3郡の合計6郡に散在このうち伊勢国は三重郡6村2,580石余・河曲郡7村2,971石余,多気郡5村2,150石余で計18村7,702石(旧高旧領)版籍奉還時の江戸城中の詰所は菊間明治4年廃藩となり,伊勢国内の藩領のうち三重・河曲2郡は吹上県を経て安濃津【あのつ】県となり,同5年三重県に所属し,多気郡は吹上県を経て度会【わたらい】県となり,同9年三重県に編入された...

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西条町(近代)
 明治23年~昭和49年の賀茂郡の自治体名...

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西条村(近世)
 江戸期~明治22年の村名...

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