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佐野荘(中世) 鎌倉期~戦国期に見える荘園名 |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
佐野藩【さのはん】 (近世)江戸期の藩名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典」
佐野荘(中世) 鎌倉期に見える荘園名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
佐野藩(近世) 江戸期の藩名安蘇郡佐野に居所を構え,同地周辺を領有した小藩で,佐野氏は外様大名であったが,堀田氏は譜代大名である佐野城(唐沢山城)は戦国期の下野における有力大名であった佐野氏の本拠で,佐野氏は天正13年(11年ともいう)佐野宗綱が足利・館林城主長尾顕長に討たれ,断絶の危機にさらされたが,老臣大貫越中の裁量で小田原の北条氏康の六男氏忠を女婿として迎えて家名の存続を図ったしかし,前城主宗綱の弟(叔父ともいう)で出家して天徳寺了伯と名乗っていた佐野房綱は,秀吉の東征に案内役として同行し,房綱に内応する佐野城内の重臣たちと組み,大貫ら親北条派との武力抗争に勝利して佐野城を奪い,天正18年の小田原の陣後に秀吉は房綱に佐野領3万9,000石の旧領を安堵したこれが当藩の起こりといえよう天正20年養子信吉に家督が譲られ,信吉は関ケ原の戦において奥羽への押えの1つとして佐野城を守る信吉は秀吉の家臣富田知信の次男で,豊臣家所縁の大名であったが,関ケ原の戦では東軍に属し,その戦後も所領を保つことができたのであるところが,慶長7年関東屈指の天険ともいわれた唐沢山城の破却が命じられ,佐野天明の春日岡城へ移城することになった巷説では,唐沢山城から江戸の大火を展望し,早馬で江戸に駆け付けて将軍の御機嫌を伺ったところ,かえって不興を買ったためといわれるそして同19年,前年石見国津和野藩主坂崎直盛と争論して除封された実兄の伊予国宇和島藩主富田信高の事件に連座したことにより,信吉は所領を没収されて信濃国松本に流され当藩は一時廃藩となる貞享元年堀田正俊(大老,常陸国古河藩主)の三男正高が古河藩の遺領のうち都賀・安蘇2郡内において1万石を分与され,諸侯に列して当藩を再び立藩したしかし,堀田正高は元禄11年近江国堅田に移封し,当藩はまたもや廃藩となったその後,正高より5代あとの堀田正敦が文政9年近江堅田より1万3,000石で入封し,三たび立藩された正敦は伊達宗村の八男で堀田正富の養子となったもので,文政8年若年寄としての功労により城主格となり,同9年近江国高島郡内の4,000石余を安蘇郡内に移され,同郡植野村に居所を営んだのである植野村には陣屋が置かれたが,正敦が城主格であったため,佐野城と称した同12年正敦は3,000石を加増され,安蘇郡のほか近江国滋賀郡,上野国勢多郡・緑野郡の4郡内において1万6,000石を領有することになった「旧高旧領」によれば,安蘇郡内の所領は6,658石余堀田氏は,正敦のあと正衡(若年寄)・正頌と在封し,明治維新にいたる「藩制一覧」による幕末~明治初年の藩の概況は,所領は下野国1郡・上野国4郡・近江国1郡の計6郡の36か村からなり,表高(公称高)1万6,000石,込高1,162石余を加えた草高(実高)1万7,162石余,年貢収入は正租が米5,108石余・永501貫余,雑税が米232石余・永430貫余,戸数2,521(うち神社64・寺院56),人口1万1,904(うち社家15・僧63),ほかに士族111戸・473人,卒族119戸・628人明治4年廃藩置県により佐野県となる... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
佐野村(近世) 江戸期~明治22年の村名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
佐野村(近世) 江戸期~明治22年の村名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
佐野村(中世) 室町期に見える村名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
佐野荘(中世) 平安末期~戦国期に見える荘園名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
佐野村(中世) 鎌倉期から見える村名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
佐野村(近世) 江戸期~明治22年の村名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
佐野廃寺跡【さやはいじあと】 伊都(いと)郡かつらぎ町佐野にある寺院跡... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典」