ケータイ辞書JLogosロゴ 三箇北荘(中世)


兵庫県>篠山市

平安末期〜戦国期に見える荘園名丹波国多紀郡のうち篠山【ささやま】盆地の中央,篠山川中流域の北部に位置する大治5年鳥羽天皇の中宮待賢門院が仁和寺内に建てた法金剛院領荘園の1つ仁和寺が領家として管理したなお,三箇北荘・三筒南荘を総称して三箇荘ともよんだ鎌倉期の永仁5年「三ケ北荘」の前下司貞綱と貞重が悪党となって荘内を荒らしたので,同年閏10月9日の六波羅御教書案によると,六波羅探題が税所左衛門尉道栄・中沢三郎左衛門尉基員にその隠れ家を探して注進するよう命じ(仁和寺文書/鎌遺19502),3年後の正安2年6月1日の六波羅御教書案でも重ねてその逮捕を厳重に命じている(前田家所蔵古蹟文徴2/同前20457)南北朝期の建武元年8月27日にも雑訴決断所が丹波の上使に牒して,直綱の濫妨をとどめて仁和寺雑掌を当荘に入部させている(仁和寺文書/大日料6-1)また,応安5年3月28日当荘は法金剛院北斗堂修造の資に充てられている(法金剛院文書/大日料6-35)室町期の応永17年11月18日,丹波守護細川満元は守護代細川遠江守に当荘下司職を安堵し(小林正直氏所蔵文書/大日料7-13),同18年9月2日にも再び遵行状をなしている(同前/同前7-14)戦国期には細川高国室が代官となったが,年貢が収納されなかったので,仁和寺座主覚道法親王の直札により年貢を納めさせている(永正十三年八月日次記/大日料9-8)天文2年の法金剛院領目録に見えるので,戦国期まで存続したと思われる(法金剛院文書/筑前国怡土荘史料)応安6年の年紀を有する藤岡の東窟寺鐘銘に,「丹州多紀郡三箇北御荘東窟寺」とある(丹波志)当荘の荘域はのちに北荘と略称され,慶長13年の「八上領高附帳」によると,現在の篠山市大熊・東浜谷・西浜谷・藤岡口・藤岡奥・大谷・佐倉・熊谷・寺内・知足・鷲尾に比定される地内には式内社大売神社があり,この地から奈良期の軒丸瓦が出土し廃寺跡といわれるなお,神社内の磐船台座の裏書に「敬白北庄昼目大明神……永禄二歳卯月吉日」とある(県神社誌)
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7391536
最終更新日:2009-03-01




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