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- 三箇荘(中世)とは
「三箇荘(中世)」の関連ワード⇒ 赤田組(近世) 飯詰組(近世) 石浜村(近世)
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![]() | 三箇荘(中世) 平安末期~戦国期に見える荘園名「山家庄」とも記される筑前国夜須郡のうちか夜須町三箇山地区に比定されるが(荘園志料),夜須高原と呼ばれるように,この付近一帯は標高400~500mの山地であり,その位置比定はいまだ検討を要するように思われる寿永3年4月,源頼朝は,かつて池禅尼に命を救われた恩に報いるため,その子の池前大納言平頼盛に一旦は没官領とされていたその家領荘園を還付安堵したが,当荘もその1つとして見え,八条院領でもあった(吾妻鏡・久我文書1)しかし,他に関係史料がみられないので,立荘の時期や同家領となった経緯,さらにはその後の状況など,具体的なことは全く明らかでない承久2年12月の石清水八幡宮検校祐清と推定される人物の譲状によれば,修理別当法眼(宝清)に譲られた所領中に「私領鎮西」として当荘の名がみられる(石清水文書1/大日古)文治4年10月20日に後白河法皇が熊野参詣の途次,石清水八幡宮に詣で,護国寺長日供花料所として三箇社を充てたが(石清水八幡宮記録/大日料4‐2),それと当荘とは同一のものであろう貞和2年12月10日,石清水八幡宮検校某(朗清か)は,「三箇社所務職」を石清水護国寺夏衆に補任しており(新田長次郎氏所蔵文書/南北朝遺2277),南北朝期にも当荘は石清水宮寺領であったその後,室町期には大内氏の支配下に置かれたらしく,康正2年11月には当荘は「砥綿右馬允杉次郎給」とされ,13貫余の段銭が課せられている(三浦家文書/大日古)また文明10年10月13日に大内政弘が部下にその所領を安堵した際にも当荘の名がみられ,「砥綿右馬允跡」として仲間若狭守盛秀ら6人に当荘内の5町ずつが安堵されている(正任記/大日料8‐10)彼らはいずれも岩屋城(太宰府市)に在番していたようである「正任記」には,「山家庄」と記されているが,それは荘園としての実体を有するものでない |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 三箇荘(中世) 鎌倉期~南北朝期に見える荘園名丹後国のうち嘉元3年頃のものと推定される摂籙家渡荘目録に,法成寺領として「丹後国 三ケ庄〈被付寺家〉免田二百廿六町 年貢六丈絹二百六十疋」とあり(九条家文書),また暦応5年正月日の摂籙家渡荘目録にも,法成寺領として「丹後国 三箇庄〈前宰相頼教卿〉免田二百廿六町 年貢六丈上絹二百六十疋」とある(同前)比定地未詳... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」