ケータイ辞書JLogosロゴ 志方(中世)


兵庫県>加古川市

 鎌倉期から見える地名。播磨国印南郡のうち。暦応3年正月24日の安保光泰譲状に「播磨国佐土余部内西志方郷」「同(播磨)国佐土余部内東志方」とあるので(安保文書/埼玉県史資料編5),「和名抄」の佐突郷のうちと推定できる。正応2年5月日の快円源有家連署配分状案に,正一殿分として,「当(播磨)国東方安田内,高氏寺大門ヨリ西,并志方,佐立,阿閇,賀古,北条,高砂,魚崎」が見える(祇園社記続録10/鎌遺17026)。戦国期の天文15年12月13日の大村助二郎売券状には,大村氏相伝の播磨国東八郡鋳物売場は「志方」を北限と記している。(芥田文書)。文明16年11月日の某袖判宛行状には,「印南郡志方郷」とあり,播磨国守護赤松氏の勢力を駆逐した山名氏が原七郎兵衛門尉に志方郷の地を宛行っている(赤松文書)。これより以前,文安2年6月13日の原氏一族連判状は,同年3月の有馬合戦で討死した弾正忠景重の跡目相続を決めたものだが,「播磨国印南郡□志□□(方住)人原⊏⊐」という書き出しで(同前),「原」という地名は志方にあり,原氏は在地の武士と確認できる。文明17年3月赤松政則は滝野光明寺に陣して,東播磨から山名氏を退散させ,4月3日に志方池寺に陣を移した(光明寺文書)。志方は,櫛橋氏の本拠地であった。櫛橋弥三郎と「志方荘池寺之住持」の可屋周印待者は兄弟であり,ともに享禄4年3月6日に摂津池田で戦死した(書写山十地坊過去帳/続群33下)。池寺は,加古川市志方町東飯坂の小字名に残る。天正6年3月,櫛橋氏は,毛利氏に内応する三木の別所長治に呼応して織田信長に離反する。同年11月14日の小早川隆景書状案に「播州之儀,御着之小寺,姫路・野間・有田・志潟(志方)・三木・宇野江申合,悉一味仕候」(毛利家文書3/大日古)とあるとおり,毛利氏の調略が成功した。天正6年3月29日には,信長の部将羽柴秀吉が「志方庄」に軍勢そのほかの濫妨狼藉などを禁止する禁制を出しており(浄智寺文書/神奈川県史資料編3下),織田軍の攻撃が始まる。野口・神吉両城が落ちると,同年8月10日に志方城主櫛橋伊則は人質を出して降伏した。同8年正月14日の羽柴秀吉書状案には,「同十日夜,しかた(志方)の城并御着之城,明退申候処,彼近所ニ置候,神吉・そね・姫路者共追付,数人討捕申候,依夜中悉不討捨候事」とある(慶応大学図書館所蔵文書/和歌山市史4)。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7391629
最終更新日:2009-03-01




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