ケータイ辞書JLogosロゴ 寺家町(近世)


兵庫県>加古川市

 江戸期〜明治22年の町名。播磨国加古郡のうち。寺家村(元禄郷帳),寺家町村(寛文朱印留)ともいった。西国街道(山陽道)の加古川宿周辺の地を開墾して成立したため,町を称し,寺家村と区別された。姫路藩領。高は,「正保郷帳」278石余うち田227石余・畑51石余,「元禄郷帳」(竜野市立図書館蔵)286石余,寛延2年には442石余(加古川市誌1),「天保郷帳」「旧高旧領」ともに455石余。鎮守は居屋河原【いやがわら】の日向大明神(日岡神社)でのち大野村に移転。寺院は,曹洞宗薬王山常住寺,真宗大谷派常安山光念寺,浄土宗一鱗山竜泉寺,大将軍堂がある。常住寺には,高さ3丈2尺・太さ3丈1尺の影向の松(鹿児の松)があった(播州名所巡覧図絵・加古川市誌1)が,2代目で枯木となり,「けふはまた田鶴の鳴音もはるめきて霞みにけりかな加古のしま松」の歌碑のみが残る(現在加古川町本町)。光念寺は,元和6年の創始で,はじめ天照山と号した(加古川市誌1)。大庄屋中谷家や,そのつながりで栗の本一門の墓がある。竜泉寺は,文永11年の開基といわれ,塔頭の正東軒・安養寺・珠養軒・最上寺は廃寺となって跡をとどめていない(加古郡誌)。印南【いなみ】郡加古川村と郡界を越えて宿場町を形成していた。慶長9年居屋河原に一里塚が築かれ,寛永12年には加古川宿が本宿になる。宝暦2年藩役所(陣屋)が置かれた。明和5年松岡青蘿が大庄屋中谷慶太郎の世話を受け俳諧を広め,栗の本庵を結んだ。天明8年宿馬の需用が多く継立てが困難のうえ飼料不足なので新馬が欠乏,7年間の増石を藩より申し渡される(姫陽秘鑑/加古川市誌1)。寛政7年小林一茶が宿泊(寛政7年紀行)。安政元年の大地震で,本陣の馬借・役所などが倒壊(糟谷文書/加古川市誌1)。明治5年麑松小学校が開校し,同9年加古川村の麛水小学校,河原村の願成小学校,同15年同村の河原小学校を合併。同20年寺家町尋常小学校と改称。明治12年加古郡役所設置。同15年の播磨国地種便覧によると,田22町5反・畑2町・宅地1町7反,戸数476・人口1,433。同22年加古川町の町名となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7391674
最終更新日:2009-03-01




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