ケータイ辞書JLogosロゴ 志深荘(中世)


兵庫県>三木市

 鎌倉期〜戦国期に見える荘園名。播磨国三木郡のうち。志深保とも見える。現在の三木市志染町一帯と考えられる。「明月記」承元2年10月9日条に「播州羽林送山梁志深庄」と見え,三位兵部卿成家の所領である。成家のあと志深荘をめぐって言家とその母大宮禅尼との間に争いが生じ,この争いは嘉禄2年頃から天福元年の母禅尼の死の頃まで続いたようである。北条時房の妻からの和解勧告も出されたらしく,定家は「明月記」嘉禄2年10月29日条に「書状〈相模守時房妻〉送書於右兵衛督母子,可和合由可相伝……事之違乱世之誹謗,偏是以母子違背為本」と書かれ,「武家之教訓,可謂穏便之儀」と記している。また,理由は不明であるが寛喜2年4月には日吉社神人が騒ぎ,天福元年荘民30人ばかりが神人となって荘家に従わなかったという(明月記)。永仁3年正月大部荘の百姓たちは同荘の前雑掌垂水左衛門尉繁昌が数百の兵を率いて荘内に乱入し,米籾刈稲銭貨などを残らず奪取したと言上しているが,この繁昌は志深保の雑掌でもあった(東大寺文書/鎌遺18733)。嘉元4年6月12日の昭慶門院御領目録では志深荘は蓮花心院領となっている(竹内文平氏所蔵文書/鎌遺22661)。文和4年4月21日には春日社領志深荘が見られ(御挙状并御書等執筆引付/大日料6‐23),さらに応安6年12月には天竜寺領志深保に対して守護使の入部を止める旨の足利義満御教書が出されており(教王護国寺文書2),至徳4年閏5月21日の天竜寺寺領土貢注文には「志深保銭百六十五貫二百六十八文〈米代・公事銭〉色々」と記されている(天竜寺文書/神奈川県史資料編3上)。これら成家の志深荘,国衙領の志深保,春日社領の志深荘,天竜寺領の志深保などがそれぞれどのような関係にあったのかは明らかでない。ただ,「蔭涼軒日録」によると,長享2年12月5日条に「八条遍照心院内如法仏灯油料播州志染保内四ケ名之事,自天竜寺本役弁之,国五十石在所也」,延徳2年11月16日条には「遍照心院内本覚寺分,播州志染庄四ケ名之事」,延徳3年4月14日条に「天竜寺領播州志染保内本覚寺分」,延徳3年4月13日条には「天竜寺領播州志染庄内本覚寺分四ケ名年貢天竜寺御沙汰」などとあり,国衙領としての志染保と私領としての志染荘との記載が混乱しているようである(大日本仏教全書)。国衙領の志染保が天竜寺に与えられて私領化して行く中で生まれた現象と考えられる。さらに「伺事記録」延徳2年8月29日条には「天竜寺領志染保福井左方壱分」が現れる(続大成)。現在三木市には福井の地名があるので,志染保は三木町をも含んでいたのかも知れない。当時志深荘内には高男寺と大谷毘沙門の2寺があった(峰相記/続群28上)。高男寺跡からは「貞和二秊卯月二日大工藤原光真作」の銘を持つ軒平瓦と,付近の経塚から仁平3年8月の銘を持つ銅製経筒が出土している。大谷毘沙門は大谿寺(伽耶院)であるが,大谿寺は京都聖護院末の修験寺院であり大永4年には大谿寺の多聞坊慶海が,天文17年には東一坊隆求が葛城入峰の本山先達として和歌山友ケ島へ渡っている(向井文書/和歌山市史4)。また,天正19年11月20日駒井益庵は「しじみかなや」に「石火矢」の鋳造を命じており,鋳物師の存在が知られる(芥田文書)。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7391685
最終更新日:2009-03-01




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