ケータイ辞書JLogosロゴ 七美荘(中世)


兵庫県>村岡町

 鎌倉期〜室町期に見える荘園名。七美郡のうち。弘安8年の但馬国大田文に長講堂領として「七美庄 三十三町〈同堂領 領家高辻播磨守 地頭和泉入道浄有〉」とある。田地の内訳は仏神田3町7反・定田29町3反で,地頭と領家が下地中分した結果,定田の3分の1は地頭の知行となっており,領家分は19町5反であった。地頭和泉入道は鎌倉幕府の有力御家人二階堂行方と推定される。南北朝期にも,本家は長講堂であったが,荘内は上方・下方に二分され,領家職などは別々に伝領されたらしい。貞治3年2月,「たちまのくに七みの庄の下かた」は比丘尼明瑚から山城妙心寺の塔頭微笑庵に寄進され,崇光上皇の安堵を受けた(妙心寺文書/大日料6‐25)。一方,当荘上方は町経秀が知行していたが,経秀は応安3年6月に「七美□(庄)上方内友真・包弘両名」,同6年5月には「七美庄上方内萩山名」を同庵に寄進している。これに伴い,同年10月,当荘上方預所職半分は妙心寺の管領とされた(同前/同前6‐38)。ついで,明徳4年2月にはさらに「長講堂領但馬国七美庄内上方三名〈間名・福元・支安〉」が微笑庵に寄進され,後円融上皇から相伝知行を認められている(同前/同前7‐1)。下って,戦国期の年未詳7月2日付山名致豊書状によれば「七美壱分事,就帰参如元返付候訖」と見え,当荘内の所領が但馬守護山名致豊から佐々木民部丞に安堵されている(田中三郎左衛門所蔵文書/鳥取県史2)。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7391730
最終更新日:2009-03-01




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