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「島」の関連ワード⇒ 赤田組(近世) 飯詰組(近世) 石浜村(近世) 




加古川中流右岸,八日山の北東に位置する...

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[最終更新日:2009-03-01/JLogosid:7391814]
関連項目: 赤田組(近世) 飯詰組(近世) 石浜村(近世) 

角川日本地名大辞典(旧地名編)

日本地名大辞典に収録されているものの中から、現在以前のものを再編。

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島原藩(近世)

江戸期の藩名肥前国高来【たかき】郡島原に居城を置き,はじめ外様小藩,のちに譜代中藩となる豊臣秀吉の九州平定により,島原半島の一円4万石が有馬晴信に与えられて当藩の出発となった有馬晴信は北有馬の日野江城に拠り,家臣に対し城下への集住を実施したが,半島内諸土豪は旧領の地方知行主であり,そのため土豪掌握も困難であったしかし,秀吉の2度にわたる朝鮮出兵に有馬氏も兵2,000をもって小西行長の軍に従い出兵させられたことや家臣への論功行賞などにより,家臣団の再編成を実施していった関ケ原の戦においては,有馬氏は徳川方に味方し,旧領4万石を安堵された慶長17年岡本大八事件により領地没収となったが,特別の計らいで子の直純に継封を許されたところで,永禄5年アルメイダ修道士が有馬義直の要請により口之津へ来たのが島原半島へのキリシタン導入の第一歩であり,天正4年には義貞が受洗,4年後には晴信もヴァリニャーノ神父により受洗,同10年天正遣欧使節のローマ派遣が行われている有馬直純は継封は許されたものの慶長19年日向国延岡に移封させられたしかし,家臣の中には従わない者が多く,彼らがのちの島原の乱時に指導者層になっていった有馬直純の転封後は一時幕府領となったが,元和2年松倉重政が4万石で入部一国一城令が前年に発布されていたため,重政は島原に森岳城を同4年より7か年の歳月をかけて完成,以後島原が政治・経済・文化の中心となる重政はルソン島遠征を企画したが,急病で亡くなったため果たし得ず,また勝家代に入りキリシタン弾圧は従前より厳しさを加えたここに寛永14年島原の乱が勃発することになる原因としては森岳城築城のための重税や労力の負課,ルソン遠征計画による藩経済の圧迫,長崎奉行竹中采女正の失脚に伴う藩収入減,寛永12年の参勤の制度化に伴う出費,翌年の江戸城のお手伝普請の出費,同年の大風による収租減,翌年の旱魃等々が挙げられる島原の乱により,松倉氏は翌15年改易となる乱後の処理と復興の任を負って寛永15年に4万石で入部したのが高力忠房であった以後島原藩には譜代大名が派遣されるようになった乱に参加した村々は「亡所」となったため,幕府は同19年諸藩に1万石に1戸の割合で島原・天草地方への農民の移住を命じたが,また「作り取り」を聞いた近隣諸藩の農民が逃げ込んで来る「方々走り百姓」もあったキリシタン宗門改めには竈主は血判を押させられるようになった高力氏は寛文2年に領内総検地を実施した「寛文朱印留」での高力氏の所領は,肥前国高来郡のうち31か村,高3万7,000石で,村名は島原・三会・三沢・東穴(空)閑【ひがしこが】・大野・湯江・多比良【たいら】・大(土)黒・西郷・伊古・伊福・三室・山田・野井・愛津・千々石【ちぢわ】・小浜・北串山・南串山・賀(加)津佐・口之津・南有馬・北有馬・有家【ありえ】・布津・深江・中木場・西古賀・日見・茂木・椛島の諸村高力氏2代隆長は,過度の年貢・労役を課したかどで,寛文8年改易となったこのため一時幕府領となるが,翌9年松平忠房が入部し,豊前国宇佐郡の48か村,豊後国東郡の50か村の合計2万7,500石が加増されたため島原本藩と合わせて6万5,900石余となり,「島原七万石」と呼ばれることになった忠房は,寛文・延宝年間に領内再検地を行い,また領内を島原筋・愛津筋・口之津筋・有馬筋・安徳筋の5筋に分けたのちの宝永年間には北目筋・西目筋・南目筋の3筋に分けたが,村数33か村は定着していった寺社領も寄進されており,半島内の寺社縁起もこの頃に始まるものが多いまた地方知行から蔵前知行への切り替えも行われ,近世大名としての形が整えられていった忠房は,救荒食物としての甘藷の栽培を始め,櫨樹の栽培,馬匹の改良にも努力したまた17世紀の後半,和漢の書籍を集めており,現在島原市立図書館に収蔵されている「松平文庫」は,忠房が収集したものである2代忠雄の時期には藩側の記録「島原様子書」も完成し,村々の概況を知ることができるこれによれば,島原本藩領は城下の島原町のほか,村々は北目筋・西目筋・南目筋の3筋に大別され,北目筋には島原・杉谷・三会・三之沢・東空閑・大野・湯江・多比良・土黒【ひじくろ】・西郷・伊古・伊福・三室・守山・山田・野井・愛津の17か村,西目筋には千々石・小浜・北串山・南串山・加津佐・口之津・南有馬の7か村,南目筋には北有馬・隈田・有家町・有田・堂崎・布津・深江・安徳・中木場の9か村が属し,合計33か村で,各村内はいくつかの名【みよう】に分かれていた総高は3万8,302石余,うち田2万6,192石余(3,204町余),卯(寛政7年)改めの新切は2,261町余(田236町余・畑2,025町余),文政6年改めの家数3万8,587,人数は男5万7,884・女5万6,807,牛2,461・馬8,169,遠見番所21か所などとある(島原半島史)年貢は,新切田・見取田・一毛田・新田,新切畑・見取畑・一毛畑・畑之田成などにも課せられ,検見法が幕末まで続く次代の忠俔時代には前代より重用された黒川郷兵衛政勝に対する桃井十兵衛らの弾劾運動が表面化し,黒川はついに江東寺において死を命じられた次代忠刻時代には元文4年より連続5か年暴風雨などのため藩経済は極度に困窮化したため櫨の藩専売に力を入れ,延享元年には櫨木10万本を植えさせるなど積極的な藩経済の立直し策を講じたしかし,忠祇が継封すると,幼少のためその任に耐えずとして寛延2年下野国宇都宮城主の戸田氏との交代を命じられた戸田氏は7万7,000石で入部し,忠辰・忠寛の2代25年在封したが,安永3年には松平氏と再度の城地交代が命じられたこの間,明和4年には忠寛が幕府の許可を得て初めて藩札を発行した藩札は6種類があり,年限は15か年,7年後には戸田氏は旧領宇都宮へ帰ったため残りの年限は松平氏に受け継がれた安永3年宇都宮より松平忠恕(忠祇の養子)が再び入部したが,家臣総数3,385,移転費用約4万石分であったという「安永3年郷村帳」によれば,所領は高来郡内33か村・高4万3,445石余(うち拝領高3万8,302石余・改出新田5,143石余),豊後国国東郡内50か村・高1万5,310石余(拝領高1万4,059石余・改出新田1,251石余),豊前国宇佐郡内48か村・高1万4,588石余(拝領高1万3,548石余・改出新田1,039石余)で,合計高7万3,343石余(拝領高6万5,909石余・改出新田7,434石余)とある(島原半島史)拝領高は変わらず,改出新田高は3郡合計7,434石余の増加となっている天明3年藩札1,600貫文を発行天明年間の飢饉の頃は当領内でも風水害が続き,寛政元年救民儲穀法を布達,備荒貯蓄の制を設け,藩財政の立て直しを企図した矢先,同4年には雲仙岳の大爆発という空前の大災害にあった前年11月頃より余震が続き,翌年正月18日に普賢岳の第1回の噴火,2月29日は溶岩流下,4月1日日没後に眉山が崩壊し,一時に島原の海岸線を変え,九十九島ができ,山麓の村は人畜ともに埋没,津波は愛野町より有馬町の海岸を襲い,対岸の肥後国天草郡・宇土郡・玉名郡にも甚大な被害を与え,後世「島原大変,肥後迷惑」ともいわれた藩内の死亡者約9,500名,藩主忠恕は惨状を視察後,守山村庄屋宅にて切腹して果てたほどである復旧の任を負って忠馮が襲封し,村民永保法(百姓相続法)を布達し,藩校稽古館を設立した当藩医学教育の端緒は稽古館での一学科として教えられたことに始まる忠侯の時,城内本丁に医学兼病院として,済衆館が独立開校した稽古館も天保5年に再建・拡張されたが,当時の儒学者に岩瀬行言の弟子川北重喜(温山)・佐藤貞椒がおり,川北温山の弟子柳沢芝陵は陽明学者として知られるまた文政10年に開かれた島原町の高田宇多子の高田塾は本藩女子教育の先駆であった文化元年レザノフ長崎来航,同5年フェートン号強制入港などの事件が起こり,長崎港警備の早船の造船,各村々への人馬割当てが実施され,借銀がかさみ,同7年には藩負債返済のため「三府の法」が発令された同11年上級家臣の俸禄削減策を提示し,翌年には御内定書を布達,家臣の俸禄の借上げについて承諾を得ているまた櫨方役所を創設し藩専売の強化に努めた大地震後は,藩札の大量の発行と相まって農民層の分解も著しく進んだ時期であり,畑作銀納が見られ,豪農家では大福帳が作成されたりもした藩主忠侯は天保年間に当たり,飢饉の時には天保8年山田・野井の新田,同9年島原では御用商人中山要右衛門による大手浜下7町3反余の干拓事業が行われた一方飢饉によって各村々には多くの餓死者が出た忠誠の頃,弘化元年藩医市川保定(泰朴)は九州で初めて死体解剖を行い,当時立会った人々の子孫が半島内の村医として活躍するようになった次代忠精の頃,嘉永2年当藩で初めて種痘が実施される長崎のオランダ軍医モーニッケに市川泰朴・賀来佐之らが学んできたものである同6年には薬草園も完成,シーボルトに学んだ賀来佐之と弟の睦之の努力による「島原採薬記」に記された薬草約528種にのぼるその後全国の山野に薬草を求めて歩き,睦之はのちに国立東京大学小石川植物園取調掛となった嘉永6年ペリーの浦賀来航,同年プチャーチンが長崎に来港し,当藩から早船や人馬が長崎に向けて派遣されたこれを機に鉄砲・大砲の鋳造のために村々の寺院の鐘が徴用される藩命による農兵制の準備も成され,島原の海岸3か所に砲台も築かれた藩論も攘夷・開国の両論ある中で,安政5年には日米修好通商条約も締結される最後の藩主忠和の時,文久3年天皇の攘夷祈願,文久の打払令が出されたため,同年4月正式に農兵制を採用し,半島海岸3か所に農兵隊を配備した第1回長州戦争に当藩は幕府側に立ち,兵を豊後高田まで送ったが,長州敗退のため戦わずして帰藩した第2回長州戦争中止後,当藩では尊攘派の激烈組が中老松坂丈左衛門正綱を襲う事件も起きた戊辰戦争では幕府側の立場を守り新政府軍と戦ったが,奥羽戦争には立場を替えて,長崎の沢総督の命に従い新政府軍として出兵した藩主忠和は,戦後使者を朝廷に遣わし,その裁きを待って許された明治初年の「藩制一覧」によれば,高来・国東・宇佐3郡内の高7万4,872石余,正税は現米3万6,945石余・雑穀8,280石・金2,571両余,雑税は現米2,919石余・金3,361両余,国産物として農牛馬990疋(運上金15両)・櫨実350万斤(益金3,000両)があり,戸数3万6,590・人口17万5,051,うち士族369戸・2,220人,兵卒888戸・4,322人「旧高旧領」では,高来郡内の所領は33か村・4万4,926石余明治4年7月廃藩置県により島原県となる

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

島原(中世)
 平安末期から見える地名...

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島津荘【しまづのしょう】
(古代~中世)平安期~戦国期に見える荘園名...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典」

島津荘(古代~中世)
平安期~戦国期に見える荘園名日向・大隅・薩摩3国にまたがる正応元年の島津荘官等申状には「嶋津本庄者,万寿年中以無主荒野之地,令開発,庄号令寄進 宇治関白」とあり,万寿年間に開発され,宇治関白藤原頼通に寄進されたという(旧記雑録)開発主体者は建暦3年4月の僧智恵申状案によれば,大宰府大監平季基である(長谷場文書/旧記雑録)平季基は万寿3年3月から翌年までは,従五位下大監として大宰府に在任していた府官であり(類聚符宣抄),「日本紀略」長元3年正月23日条には「召大宰府大監平季基,令候左衛門陣」とあり,長元年間には京都に出仕しており,この時期関白頼通に寄進したのであろうところで,島津荘は,日向・大隅・薩摩と3国にまたがる荘園で,平安末期から鎌倉初期には約8,000町という全国第1の荘園に発展するが成立当初は日向国の一荘園であった島津本荘の地は遺称地がなく正確な位置は不明であるが,「延喜式」の島津駅の置かれたと推定される現在の宮崎県都城付近とする説が有力なお,鎌倉期~南北朝期に日向国に島津院が見え,建久8年の日向国図田帳には「嶋津破(院カ)三百丁 右同(諸県)郡内〈地頭同人(宗忠久)〉」と見える建久図田帳によれば,島津荘は基本的には一円荘と半応輸地の寄郡から成立しているその内訳は日向国で一円荘2,020町(北郷・中郷・南中郷・救仁郷・財部【たからべ】郷・三俣院・嶋津院・吉田庄),寄郡1,817町(新名・浮目・伊富形・大貫・新納院・宮頸・穆佐院・飯肥北郷・同南郷・櫛間院・救仁院・真幸院)大隅国で新立荘750町(深河院・財部院・多禰【たね】島),寄郡715町8反3丈(横河院,菱刈院,串良【くしら】院,鹿屋【かのや】院,肝付郡,禰寝【ねじめ】北俣,下大隅郡,姶良【あいら】西俣・小河院内百引村・同永利,曽野郡永利,筒羽野)薩摩国では一円領635町(伊作郡,日置【ひおき】北郷・同南郷内外小野,和泉郡),寄郡2,130町3反(市来【いちき】院,満家院,河辺【かわなべ】郡,高城【たかき】郡内若吉・同時吉・同得末・同吉枝・同武光・同三郎丸,東郷別符内吉枝・同若吉・同時吉,薩摩郡内時吉・同永利,同吉永・同火同九,宮里郷,入来【いりき】院,祁答【けどう】院,牛屎院,山門院,莫禰【あくね】院,甑島【こしきじま】,智覧院,揖宿【いぶすき】院,給黎【きいれ】院,谷山郡,麑嶋郡,頴娃【えい】郡)である荘の総田数は8,167町余で,これは日隅薩3国の田数の5分の2に相当する寄郡については,いつどのように成立したかは不明であるが,久安3年2月9日の伴信房解によれば,入来院や薩摩郡は寄郡になっており,薩摩国における国衙領の寄郡化はこの頃にはほぼ完了していたのであろうおそらく島津荘が日向から大隅・薩摩へと発展したのも,これ以前の11世紀末から12世紀初めの時期と推定されるすでに明らかなように島津荘の領家は摂関家であり,その下に預所が置かれた現地の支配機構としては荘政所があったが,承安5年8月14日の島津荘政所下文によれば,荘政所は2人の別当執行と8人の別当から構成されている(富山文書/旧記雑録)別当職は開発領主平季基の姻族である伴氏や藤原氏が世襲するようになり,平安最末期には,薩摩国では在庁伴信明が島津荘薩摩方を代表する別当となっているので,日向方や大隅方でもその方を代表する別当がいたのであろう荘政所別当は在庁官人が兼帯しておりそれぞれの国衙と権限・機構の混乱・混同があった荘の下部組織である各郡院では,寄郡には弁済使,一円領には下司が置かれ,弁済使は郡司が兼帯している点でも荘園に先行する既存の国衙の行政組織を吸収し,成立したことがわかるさらに弁済使の下には小弁済使・検校・沙汰人などの荘官も存在した次に伝領関係をみると,島津荘を含む摂関家領は藤原忠実によって惣領されるようになったが,保元の乱の敗戦により忠実の立場が苦しくなると,島津荘は忠実の女である鳥羽天皇の皇后高陽院泰子に譲って,その保全を図ったその後,島津荘などの高陽院領は忠通の子基実に返ったが,基実の早死後,平清盛は基実の室平盛子(清盛女,白河殿)を介して,摂関家の家司藤原邦綱と通謀して実質的には平家領にしてしまった源平争乱に際し,再び高陽院領は源頼朝によって処分される危機に直面したこの頃の領家は邦綱の女三位大夫藤原成子(一乗院実信の乳母)であったこれが承久の乱の前後に近衛基通の子である興福寺一乗院主実信に譲られたこの結果,島津荘の本所(本家)は近衛家,領家は南都一乗院になったこのように中央政局の危機を回避するために,島津荘の伝領も複雑な過程をたどらざるをえなかった(鹿児島市史)さて,最後に当荘と島津氏についてであるが,建久図田帳によれば,「右衛門兵衛尉」すなわち惟宗(島津)忠久がこの広大な荘園の惣地頭として見える忠久はすでに元暦2年8月17日には源頼朝から島津荘下司職に任じられており,文治2年4月3日までには荘地頭(惣地頭)職に補任されて,さらに建久9年には薩摩・大隅・日向3国の守護になったと思われる(島津家文書/大日古)忠久の出自は不明な点が多く,頼朝落胤説もあるが,彼は惟宗姓であり,惟宗広言の子であり,近衛家の所従とする説などがある忠久は「吾妻鏡」建仁3年9月の条によれば,比企の乱に縁座して大隅・薩摩・日向の守護職を収公されているが,同時に島津荘の惣地頭職をも失ったとみられるその後,薩摩国についてはほどなく復され,建暦3年7月10日の将軍家政所下文によれば,島津荘内薩摩方の地頭職は戻されている(島津家文書/大日古)嘉禄3年6月18日,忠久は鎌倉で没し,その職は子息の忠義(忠時)に譲られる同年10月10日には左衛門尉惟宗忠義に越前国守護職,島津荘内薩摩方地頭守護ならびに十二島地頭職その他を安堵する将軍藤原頼経袖判下文が出されている道仏(忠時)は文永8年9月15日に譲状を作成して,四男久経を惣領と定めて,所領等を譲り,それは文永8年12月24日の関東下知状で安堵される(同前)久経の時期は文永・弘安の役の時期に相当し,その晩年は博多の営中にあり,薩摩にも度々下向したと思われる久経の保有した地頭職は和泉荘・山門院・莫禰院・薩摩郡・宮里郷・市来院・満家院・日置南郷・日置荘・伊集院・頴娃郡・給黎院・谷山郡・鹿児島郡などの島津荘薩摩方地頭職と十二島の地頭職で,大隅・日向方の地頭職は回復できなかったそれでは,忠久が当荘の地頭職を改易されてから島津荘地頭職はどうなったのであろうか詳細は不明であるが,諸史料からみて,三国守護職は北条氏の手中に帰したと考えられ,その兼帯職であったとみられる島津荘地頭職は北条氏に与えられた可能性が高い薩摩方は島津氏に返されるが,他の大隅方・日向方は北条氏が相伝したとみられる建治2年8月の大隅国在庁石築地役配符には「嶋津御庄〈領家近衛殿 地頭尾張守殿〉」とあり,名越公時が大隅方の地頭であって,その後,元弘年間に至るまで北条氏のうち名越氏に相伝されている(九州諸国における北条氏領の研究/荘園制と武家社会)一方,足利尊氏・直義所領注文には「同(日向)島津庄〈守時〉」と見え,元弘年間,当荘日向方は最後の執権赤橋守時の所領であり,その滅亡後,足利尊氏領となっている(比志島文書/神奈川県史資料編古代中世3上)さて,久経の後,島津荘薩摩方および十二島は子息に分割され,嫡子忠宗は山門院・莫禰院・薩摩郡・市来院・鹿児島・十二島の地頭職,忠氏は和泉氏を称し,和泉荘・満家院・日置南郷・給黎院・頴娃郡の地頭職,時久(新納氏)は宮里郷地頭職,久長(伊作氏)は伊作・日置荘の地頭職,忠真(山田氏)は谷山(山田)の地頭職を所持し,分家する(川内市史)忠宗は薩摩守護として在国し,木牟礼城を拠点として,薩摩の実質的支配者として成長していった忠宗の跡は貞久が継ぐ貞久の代は,鎌倉幕府の滅亡,建武政権の成立,南北朝の動乱と激動の時代であり,貞治2年,95歳で逝去するまで戦いの明け暮れであった貞久は北朝方として建武3年に薩摩・大隅両国の守護に任じられ,島津氏悲願の大隅回復と勢力拡大を図るその子息の師久は薩摩守護を継ぎ,氏久は大隅守護を継いで,それぞれ,総州家,奥州家を称し分立し,対立するが,総州家は師久の子伊久の死後,衰微して,薩摩守護は奥州家の元久が補任されている元久はすでに明徳2年には大隅守護とともに日向守護にも任じられ,忠久の時に失った三国守護職は元久の代に至って再び島津氏の手に戻ったしかし,それは,忠久のそれとは異なり,守護大名への道であった南北朝期~室町期,島津荘がどれだけ,実態的に機能していたかは不明であるが,室町期に入っても,「嶋津御庄薩摩国」「嶋津御庄薩摩方」「嶋津御庄日向方」「日向国於島津庄」「嶋津庄大隅方」などと広域地名として見える(旧記雑録)荘域は現在の鹿児島県から宮崎県に及んでいる...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

島津荘【しまづのしょう】
(古代~中世)平安期~戦国期に見える荘園名...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典」

島津荘(古代~中世)
平安期~戦国期に見える荘園名日向・大隅・薩摩3国にまたがる正応元年の島津荘官等申状には「島津本庄者,万寿年中以無主荒野之地,令開発,庄号令寄進 宇治関白」とあり,万寿年間に開発され,宇治関白藤原頼通に寄進されたという(旧記雑録前1)建暦3年4月の僧智恵申状案によれば,開発主体者は大宰府大監平季基である(長谷場文書/旧記雑録前1)平季基は万寿3年3月から翌年までは,従五位下大監として大宰府に在任していた府官であり(類聚符宣妙),「日本紀略」長元3年正月23日条には「召大宰府大監平季基,令候左衛門陣」とあり,長元年間には京都に出仕しており,おそらくこの時期に関白頼通に寄進したものと推定される(国史大系)ところで,当荘は日向・大隅・薩摩の3国にまたがる荘園で,平安末期から鎌倉初期には約8,000町という全国第一の荘園に発展するが,成立当初は日向国の一荘園であった島津本荘の地は遺称地がなく,正確な位置は不明であるが,「延喜式」の島津駅が置かれたと推定される現在の都城市郡元を中心とする一帯に比定する説が有力なお,鎌倉期~南北朝期に日向国に島津院が見え,建久8年の「日向国図田帳写」には「島津破(院カ)三百丁 右同(諸県)郡〈内地頭同人(惟宗忠久)〉」と見え,諸県【もろかた】郡に属していたことが知られる建久図田帳によれば,当荘は基本的には一円荘と半不輸地の寄郡から成立しているその内訳は日向国で一円荘2,020町(北郷・中郷・南中郷・救仁郷・財部【たからべ】郷・三俣院・島津院・吉田庄),寄郡18門町(新名・浮目・伊富形・大貫・新納院・宮頸・穆佐院・飫肥【おび】北郷・飫肥南郷・櫛間院・救仁院・真幸【まさき】院)大隅国で新立荘750町(深河院・財部院・多禰島),寄郡715町8反3丈(横河院・菱刈院・串良院・鹿屋院・肝付郡・禰寝北俣・下大隅郡・姶良西俣・小河院内百引村・同永利・曽野郡永利・筒羽野)薩摩国では一円領635町(伊作郡・日置北郷・日置南郷内外小野・和泉郡),寄郡2,130町3反(市来院,満家院,河辺郡,高城郡若吉・時吉・得末・吉枝・武光・三郎丸,東郷別符内吉枝・若吉・時吉,薩摩郡内時吉・永利・吉永・火同九,宮里郷,入来院,祁答院,牛屎院,山門院,莫禰院,甑島,智覧院,揖宿院,給黎院,谷山郡,鹿児島郡,頴娃郡)である荘の総田数は8,167町余で,これは日・隅・薩3国の田数の5分の2に相当する寄郡については,いつどのように成立したかは不明であるが,久安3年2月9日の伴信房解によれば,入来院や薩摩郡は寄郡になっており,薩摩国における国衙領の寄郡化はこの頃にはほぼ完了していたのであろう(入来院文書/平遺2601)おそらく島津荘が日向から大隅・薩摩へと発展したのも,これ以前の11世紀末から12世紀初めの時期と推定されるところで,先にふれたように島津荘の領家は摂関家であり,その下に預所が置かれた現地の支配機構としては荘政所があったが,承安5年8月14日の島津荘政所下文によれば,荘政所は2人の別当執行と8人の別当から構成されている(富山文書/日向古文書集成・旧記雑録・平遺3697)別当職は開発領主平季基の姻族である伴氏や藤原氏が世襲するようになり,平安最末期には,薩摩国では在庁伴信明が島津荘薩摩方を代表する別当となっているので,日向方や大隅方でもその方を代表する別当がいたのであろう荘政所別当は在庁官人が兼帯しており,それぞれの国衙と権限・機構の混乱・混同があった荘の下部組織である各郡院では,寄郡には弁済使,一円領には下司が置かれ,弁済使は郡司が兼帯している点でも荘園に先行する既存の国衙の行政組織を吸収し,成立したことがわかるさらに弁済使の下には小弁済使・検校・沙汰人などの荘官も存在した次に伝領関係をみると,島津荘を含む摂関家領は藤原忠実によって惣領されるようになったが,保元の乱の敗戦により忠実の立場が苦しくなると,島津荘は忠実の女である鳥羽天皇の皇后高陽院泰子に譲って,その保全を図ったその後,島津荘などの高陽院領は忠通の子基実に返ったが,基実の早死後,平清盛は基実の室平盛子(清盛女・白河殿)を介して,摂関家の家司藤原邦綱と通謀して実質的には平家領にしてしまった源平争乱に際し,再び高陽院領は源頼朝によって処分される危機に直面したこの頃の領家は邦綱の女三位大夫藤原成子(一乗院実信の乳母)であったこれが承久の乱の前後に近衛基通の子である興福寺一乗院主実信に譲られたこの結果,島津荘の本家は近衛家,領家は南都一乗院になったこのように中央政局の危機を回避するために,島津荘の伝領も複雑な過程をたどらざるをえなかった(鹿児島市史)次に,当荘と島津氏についてであるが,建久図田帳によれば,「右衛門兵衛尉」すなわち惟宗(島津)忠久がこの広大な荘園の惣地頭として見える忠久はすでに元暦2年8月17日には源頼朝から島津荘下司職に任じられており,文治2年4月3日までには荘地頭(惣地頭)職に補任されて,さらに建久9年には薩摩・大隅・日向3国の守護になったと思われる(島津家文書/大日古)忠久の出身は不明な点が多く,頼朝落胤説もあるが,彼は惟宗姓であり,惟宗広言の子であり,近衛家の所従とする説などがある忠久は「吾妻鏡」建仁3年9月の条によれば,比企の乱に縁座して大隅・薩摩・日向の守護職を収公されているが,同時に島津荘の惣地頭職をも失ったとみられる(国史大系)その後,薩摩国についてはほどなく復され,建暦3年7月10日の将軍家政所下文によれば,島津荘内薩摩方の地頭職は戻されている(島津家文書/大日古)嘉禄3年6月18日,忠久は鎌倉で没し,その職は子息の忠義(忠時)に譲られる同年10月10日には左衛門尉惟宗忠義に越前国守護職,島津荘内薩摩方地頭守護ならびに十二島地頭職その他を安堵する将軍藤原頼経袖判下文が出されているさらに,道仏(忠時)は四男久経を惣領として所職等を譲っているが,その内容は島津荘薩摩方地頭職と十二島地頭職で,大隅・日向方の地頭職は回復できなかった(同前)それでは,忠久が当荘の地頭職を改易されてから島津荘地頭職はどうなったのであろうか詳細は不明であるが,諸史料からみて,三国守護職は北条氏の手中に帰したと考えられ,その兼帯職であったとみられる島津荘地頭職は北条氏に与えられた可能性が高い大隅方・日向方は北条氏が相伝したものと推定されるのである建治2年8月の大隅国在庁石築地役配符には「島津御庄〈領家近衛殿 地頭尾張守殿〉」とあり,名越公時が大隅方の地頭であって,その後,元弘年間に至るまで北条氏のうち名越氏に相伝されている(九州諸国における北条氏領の研究/荘園制と武家社会)一方,足利尊氏・直義所領注文には「同(日向)島津庄〈守時〉」と見え,元弘年間,当荘日向方は最後の執権赤橋守時の所領であり,その滅亡後,足利尊氏領となっていることがわかる(比志島文書/神奈川県史資料編古代中世3上)ところで,建武元年7月3日の島津荘日向方南郷乱妨狼藉人等交名は,鎌倉幕府滅亡後,北条高時一族遠江掃部助三郎方に与同した領主を書きあげたものだが,その中には救仁弁済使・南郷弁済使・三俣(院)先公文・串良弁済使らが見え,鎌倉期の北条氏支配の間に,弁済使・公文という島津荘日向方の荘官層が北条氏方に組織され,南郷がその拠点となっていたことを示している(諏訪文書/日向古文書集成・旧記雑録前1)南北朝期における島津荘の一円荘域では,島津荘日向方南郷の門貫・末貞名を門貫氏から獲得した長谷場氏に対し,康永4年3月16日一乗院留守所下文によれば,当荘領家一乗院留守所は,門貫氏から長谷場氏への土地の移動を認め,春日大宮司への供米の沙汰を長谷場氏と契約している(長谷場文書/南北朝遺2103・旧記雑録前1)島津荘留守所は奈良にあり,在地では長谷場氏からの年貢上納に依存する形であり,その後,在地領主層の勢力拡大のなかで,領家興福寺一乗院の支配力は減退していったまた,日向方北郷では,文和2年2月,一色範氏が島津氏久に北郷の地頭職を宛行い,以後の島津氏の日向への進出の橋頭堡的位置を占めるようになる(島津家文書/大日古・日向古文書集成・旧記雑録前1)北郷は,その後,氏久の伯父北郷資忠の所領となり,守護島津氏の認証下に,庶家北郷氏の在地支配が推し進められていった南北朝期~室町期,島津荘がどれだけ実態的に機能していたかは不明であるが,室町期以降も「島津御庄日向方」「日向国於島津荘」「島津庄日向方」「島津御庄薩摩方」「島津庄大隅方」などと広域地名として見える(旧記雑録)荘域は現在の宮崎県南部から鹿児島県に及んでいる...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

島廻炭鉱【しまめぐりたんこう】
田川郡川崎町と大任(おおとう)町にまたがってあった炭鉱...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典」

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田川郡川崎町と大任(おおとう)町にまたがってあった炭鉱...

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島守村(近世)
 江戸期~明治22年の村名...

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島原村(近世)
 江戸期~明治22年の村名...

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島根県【しまねけん】
'■都道府県章
「マ」の字を図案化し,四つを組み合わせ「シマ」と読みます...

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出典:東京書籍「都道府県Webデータベース」

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