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「清水町(近世)」の関連ワード⇒ 赤田組(近世) 飯詰組(近世) 石浜村(近世) 

清水町(近世)


江戸期~明治初期の町名江戸期は姫路城下の1町武家地明治初年姫路を冠称姫路城の北西,中曲輪(内山下)のうち船場川の左岸清水門内で,姫山の北にあたり,東西4筋の侍屋...

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[最終更新日:2009-03-01/JLogosid:7391847]
関連項目: 赤田組(近世) 飯詰組(近世) 石浜村(近世) 

角川日本地名大辞典(旧地名編)

日本地名大辞典に収録されているものの中から、現在以前のものを再編。

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清水町(近世)

江戸期~明治15年の町名清水谷町・清水谷ともいう浜松城下のうち浜松城の南西に位置し,町筋は南北に伸びる北は高町(東高町),南は東鴨江村に接する町名の由来は,当地付近で清水が湧出したことにある(浜松市史2)町人地延宝5年「浜松町村帳」では町分と見え,家数8(浜松市史史料編3)宝暦9年「遠州浜松各町書上」によれば町筋は南北に伸び長さは50間余,町幅は1間ほかに横町があり,町筋は東西に伸び50間余しかし当町は浜松町数には入るが,町内には家並みがなく,家屋が散在しているとある本役家屋敷は7軒で,町内諸役を勤めてきたが,当時は22軒(うち借屋5軒・借地10軒)で勤める役には火消役・当町土橋修復役・町並役がある(同前1)同年の「諸職御定法之覚」では家数22軒,うち諸役地子免許で御用職人の瓦師職人頭が1軒ある(浜松宿諸職記録/浜松市史史料編2)宝永年間五社大明神の造営にあたり,当地(清水谷)において鍛冶職が金工鋳造方を命じられた(浜松市史2)当町の瓦師頭喜兵衛は家康浜松在城以来瓦の御用を勤め,東は天竜川,西は新居宿,南は浜辺,北は国領までの範囲の瓦支配を任せられたというまた寛永年間の五社・諏訪両社の造営に貢献し,藩主太田氏の代には年間瓦1万3,000枚を献上したと伝える(同前)神社には寛永年間五社明神の造営の時,浜松城内から移建したという金山社がある(同前)明治13年の戸数35(浜松町沿革誌)明治15年旧武家地の半頭【はんこう】町・秋葉【あきは】町・清水と合併して浜松三組町となる

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

清水町(近世)
江戸期~明治8年の町名高遠【たかとお】町のうち町方10町の一つ猪鹿山から東方へ傾斜する段丘舌端部,藤沢川沿いに的場村から新町へ通じる道沿いに形成されている江戸初期には,城下防備上,杖突街道北の入口として下級武士が居住した寛永年間頃,鉾持村内,伊那と諏訪を結ぶ杖突街道沿いに城下町建設が進められ,町方となった近くの浅間社から清水が湧き出ており,清水の地であることから町名となった(木の下蔭)町の長さ52間4尺で,1,430坪(高遠地方旧記など)家々の間口は,8間もあるがほぼ3~4.5間ほどで,切妻造り,板葺石置屋根,格子造りの低い2階屋と平屋で,庇にのれんを掛けた商家と宿屋からなっていた町方は地子免除の無高地だが,運上金・冥加金・諸役金のほか,間数に応じた伝馬役・人足役が課せられた当町は人足役で,元禄10年には本人足役6軒,半人足役4軒であった元禄14年の宗門帳による人口115うち男60・女55文化6年には戸数20軒,うち本人足役3軒・半人足役13軒と,半人足へ格下げの家が増加し,また人口も59うち男32・女27と半減している間口も2.5~3間と,小家屋となっているこの状態は慶応年間まで続いた街道への出入口の町として宿屋があり,また御用商人も2軒あったが,たび重なる飢饉に,持家人からも困窮者を出した鍛冶屋を中心に借家の多い町となったが,明治期に入り,明治3年35軒と増加し,製糸工場なども建ってにぎわいを見せた同8年西高遠町の一部となる...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

清水町(近世)
江戸期~明治7年の町名小浜町の1町小浜城下の南西端に位置し,青井村から城下への入口にあたる寛永夫代帖に町名が見える(拾椎雑話)町名は,町内に清水があることによる(若狭郡県志)元禄12年の夫代銀帳写によれば,家数40,1年に132匁4分4厘3毛を上納している(野瀬家文書/小浜市史諸家文書編)また,天保10年の切支丹改ニ付町内吟味連判帳による戸数32,人口138うち男67・女71(同前)西からの城下入口にあたるため青井村との境に西口門が設けられ,番所も置かれていた旧記抜書によれば,西口門外の道筋の修復や掃除は当町と柳町に課せられ,その代わりに火消役が免除されていた(組屋文書/小浜市史諸家文書編)正月14日には門の外で子供が左義長を焼いたという(拾椎雑話)なお,文化9年の町定目録帳によれば,町内に七軒屋という宿屋仲間があり,西国三十三か所観音霊場巡りの途中の巡礼者たちを泊めていた(野瀬家文書/小浜市史諸家文書編)6月祇園会祭礼の行列では,延宝7年には山岸町・甲呂木町・浜浦町・文殊丸町とともに西五町として参宮の練り子を(拾椎雑話),安政5年には文殊丸町・浜浦町とともに異国来朝の練子を出している(遠敷郡誌)寺院は真言宗泉涌寺派正法寺があり,本尊の如意輪観音は俗に上ノ山観音と称された明治7年の戸数44同年大原町の一部となる...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

清水町(近世)
 江戸期~明治22年の町名...

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清水町(近世)
 江戸期~明治22年の町名...

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清水町(近世)
 江戸期~明治22年の町名...

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清水町(近世)
 江戸期の町名...

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清水町(近世)
江戸期~明治7年の町名福井城下のうち神宮寺町組の1町足羽【あすわ】山東麓の北陸街道沿い神宮寺下町を西に入った町足羽山の通称百坂に通じていて,これを登れば足羽神社となるなお,この百坂は,幕末に松岡屋という町人が足羽神社への近道として築造した町名の由来にもなった湧泉の斎殿清水が百坂下にあり,大岩清水と呼ばれ,石場町から久保町一帯の上水道として使用されたまた当時の納涼地になったともいう正徳3年頃の御城下惣町間数帳には,道幅1間,道の長さ51間とある明治7年足羽上町の一部となる...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

清水町(近世)
 江戸期~明治22年の町名...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

清水町(近世)
江戸期~明治2年の町名松屋町通上長者町下ルの町志水町とも書いた(寛永14年洛中絵図)かつては聚楽第の地で,町名は聚楽第の池からの流水をうけた地であることにちなむという(府地誌)町内の梅雨井【つゆのい】は聚楽第の境域内に位置し,秀吉は茶の湯にこの井水を汲んだと伝え,梅雨の入から水があふれ出ることから清水町の名がついたとする説もある(宝暦町鑑)江戸期は上西陣組の須浜七町組明治2年東堀町に合併...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

清水町(近世)
江戸期~明治22年の小字名滋賀郡のうち江戸期は膳所【ぜぜ】城下町膳所村のうちで青木町とも称した地名は膳所城築城前に相模川の清水が流れていたことに由来し,築城に際し,相模川下流は埋め立てられた明治5年滋賀県に所属同22年膳所村大字膳所の小字上清水町と下清水町となる以後上清水町・下清水町は膳所町,大津市膳所本町の小字名として存続し,昭和26年それぞれ膳所を冠称し大津市の町名となる...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

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