ケータイ辞書JLogosロゴ 下堺村(近世)


兵庫県>五色町

 江戸期〜明治10年の村名。淡路国三原郡のうち。下境村とも書く。もとは豊臣氏蔵入地で,天正14年の淡路国御蔵入目録(脇坂文書)に「下さかい」と見え,上堺と合わせた高500石余を記す。慶長8年脇坂安治領,同14年藤堂高虎領,同15年池田忠雄領,元和元年からは阿波国徳島藩領。村高は,「郷帳下書」380石余,「天保郷帳」608石余,「旧高旧領」649石余。「味地草」では,高625石余,家数101,古くは上堺村と一村で武谷村と称したという。三原郡戸数反別取調帳によれば,反別48町余,高649石余,家数99・人数545(五色町史)。氏神は倭文庄田八幡宮であったが,倭文から分祀して堺村八幡宮を迎え,秀吉の淡路攻略の時,西円寺とともに焼失。同社は池田氏から社領を寄進されて再興。西竜寺は先山の末寺で,滝坊といい,志知城主老臣滝角兵衛が城主の菩提所として創建。滝氏の居住地を土居と呼んだ。岡坊の観音堂,清浄坊の薬師堂(天徳年間頃創建,建武年間頃焼失の天徳寺)がある。三宝院には西滝寺の鰐口で永徳3年銘のものがある。庄屋藤野氏は和気清麻呂の末裔という(味地草)。明治10年堺村の一部となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7391977
最終更新日:2009-03-01




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