ケータイ辞書JLogosロゴ 下得久(中世)


兵庫県>南光町

 南北朝期に見える地名。播磨国佐用【さよ】郡佐用荘のうち。南北朝期に当村などは赤松氏の所領となり,観応元年12月5日足利尊氏は赤松則村の遺領である「播磨国佐用庄内赤松上村・三川村・江川郷太田方・広瀬方・弘岡方・本位田・下得久」などをその子範資に安堵している(森川文書/大日料6‐14)。その後,赤松則村の次子貞範の次男頼則がさらに所領を子の満則に譲り,応永16年9月4日将軍足利義持は「佐用庄上津方」などを満則に安堵している(赤松文書/姫路市史史料編1)。この上津方は当地付近で,現在も徳久駅前の中学校を上津中学校という。江戸期の上津郷は,南光町の下徳久から南,三日月町の西部を含む13か村であった。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7392050
最終更新日:2009-03-01




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