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新町(近世)


江戸期の町名伊丹【いたみ】村(伊丹町)を構成する27か町の1つ文禄年間までに成立旧有岡城侍町の西縁に位置する町名の由来は,有岡落城後の焼跡に進出したことによるか...

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[最終更新日:2009-03-01/JLogosid:7392398]
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角川日本地名大辞典(旧地名編)

日本地名大辞典に収録されているものの中から、現在以前のものを再編。

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新町(近世)

江戸期の広域称和歌山城下のいわゆる大名【おおな】八所の1つ「続風土記」に「西・北は川を限り広瀬・中野島に堺し,東・南は宮郷諸村に堺す」とあり,和歌山城の東部,和歌川左岸に沿う町人地を指す同書は当地の成立について「浅野家のとき開きて市街とす」と記すが,紀伊国和歌山ノ城廻間数之覚(諸事覚書/浅野家文書)に見える城下町の範囲には,当地はまだ入っていないまた当地東部の町奉行支配下への編入は大部分天和3年であり,宝暦7年改では新町がすべて新町として新町年貢を負担していることなどから(神保家文書),徳川氏入国以後形成された新町とみるのが妥当であろう在中作方諸事覚書(土屋家文書/和歌山市史5)に,享保11年改で,新内【あろち】村の275石余の地が新内分・裏町分・新町分として記され,太田村の23石余が瓦町の内,中野島村の338石余が新町分・畑屋敷分と記されているなお中野島村の分は北新町分を含み,新町分は同史料に「新雑賀町・荷(鍛)冶町・境丁・八百屋丁・鈴丸町,北西ハ内川限リ,東ハ畑屋敷境水道限リ」と見える地にあたるまた,岡領から一部広瀬にかかる203石余の地が,当地に入っている和歌川を東へ越えた一帯の村方が,城下町に組み入れられていったことがわかる天和3年になって城下町へ編入された町続き部分の畑屋敷丁・岡領丁・北新内・南新内は,古町に比べて入り組んだ町割を見せていたなお元禄15年改の町入用負担棟数は,北新町に対し南新町とある新町分800軒役(内町広瀬新町湊棟役間打打掛り物株々並棟数之覚/神保家文書)宝暦7年改では,橋向丁・新留【にんとめ】丁・北一里山丁・南一里山丁・西田中町・東田中町・西瓦町・東瓦町・新通1~7丁目・茶屋町・新中通1~6丁目・南休賀町・北休賀町・新堺丁・新八百屋丁・木挽丁・毛革屋丁・南雑賀【みなみさいか】町・新雑賀町・鈴丸丁・新大工町・数寄屋丁,以上33町が見え,また北新町も含めた新地14町も見える(同前)天保年間の町数は78町であった(続風土記)

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

新町(近世)
江戸期~明治9年の町名山鹿郡のうち日岡山南側の御宇田台地と,その南を西流する菊池川に挟まれた平野部に位置する熊本藩領当地はもと上御宇田村のうちで,商家なども並んでいたが,戦国末期の兵乱により焼失し,里俗は黒土町と称した江戸期に入り,藩主細川忠利が鷹狩の折に当地で休息し,再興のため町として取り立て,「新町」と称するようにしたという(宝暦七年口上の覚/大光寺蔵文書)元禄国絵図(永青文庫)には「クロツチマチ」とある「肥後国誌」では中村手永に属し,上御宇田村のうちとあり,高227石余「旧高旧領」では,「新村」と見え,高244石余戸数は慶安~承応年間40余,元禄年間120余,宝暦5年130余(宝暦七年口上の覚/大光寺蔵文書)同13年には157戸(中村手永新町絵図/同前)天保9年には249軒・1,045人となり(山鹿・中村手永手鑑/肥後藩の農村構造),町場としての発展が顕著であるただしその土地は上御宇田村と錯綜していた宝暦2年の中村手永御蔵納手鑑(肥後藩の農業構造)によれば,町の中央には中村手永の会所があり,7枚建ての高札が立ち,侍身分も多く居住,市日2・7の日の六斎市も開かれた酒屋は手永内10軒のうち7軒があり,問屋1・旅人下宿2もあった天保9年の山鹿・中村手永手鑑(肥後藩の農村構造)では,ほかに紺屋2・麹屋15・質屋1・油屋4・揚酒屋5・濁酒屋1があった安政年間には米・麦・粟などのほか麻・木綿・煙草などの商品作物も栽培,油糟を肥料とした西瓜も売られた(中村手永稼穡調書/肥後藩の農業構造)寺院には,浄土真宗本願寺派西光寺末で慶長16年善覚開基という正光寺,同成満寺末で天文年間開基という光運寺などがある熊本県を経て,明治5年白川県に所属同6年までは桑原蟠竜(僧侶),伊東雲記(医師),森本一雄(神官),安東尚義それぞれの寺子屋があったが,同7年新町小学校が下町南裏通に開設された(鹿本町史)同9年来民町の一部となる...

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 江戸期の町名...

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 江戸期の地名...

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新町(近世)
江戸期~明治8年の町名高遠【たかとお】町のうち町方10町の一つ鉾持村内,伊那と諏訪を結ぶ杖突街道沿いには古くから宿場や門前町が街村を形成していたが,寛永年間頃,この低地に高遠城下町の建設が進み,旧来の門前町鉾持古町に対して東西方向に延びる新しい町,新町を造った町の長さ115間4尺,2,603坪と,10町中最大の町で,板葺石置屋根に格子造り,間口4~5間という大店構えの2階屋と,平屋が並んだ元禄10年の家数間数帳によると42軒建福寺・満光寺の門前町でもあった寛延4年の人口196,内訳は男103うち下人5,女93うち下女7天保6年の人口130,男56のうち下人5,女65のうち下女4雇用人の少ない小商人と鍛冶・大工などの職人が多く,そのなかに数軒の豪商と1軒の御用商人がいた町方は地子免除の無高地だが,運上金・冥加金・諸役金のほか,間数に応じた伝馬役・人足役が課せられた当町は人足役で,元禄10年には本人足役24軒・半人足役14軒文化6年になると,間口2~4間と中小の店構えとなるが,計50軒と増加し,うち本人足役35軒・半人足役6軒と,格上げの家屋が増加しただが幾度か全焼被害の火災にあい,たび重なる飢饉には,多くの者が御救を必要とした慶応元年には本人足役17軒・半人足役24軒と,格下げが増加し,賦役勤務に困窮する者も出た町代が,問屋・名主の3人による町方三役の命をうけた町内全戸の投票で選ばれ,藩が任命をうけて町行政を行った明治期に入ると,江戸期からの造り酒屋に,製糸工場,湯屋もあるなど,商工業の町,庶民の町としてにぎわった明治8年西高遠町の一部となる...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

新町(近世)
江戸期~明治9年の町名中通り南部,阿武隈【あぶくま】川の支流谷津田川流域に位置する白河郡のうち白河藩領小峰(白河)城下郭外のうち村高は,文化年間の演説書書抜で167石余,「天保郷帳」402石余,「旧高旧領」406石余なお「天保郷帳」「旧高旧領」には新町村とある城追手口西南にあり,南北にのびた町町は北から一番町・二番町・三番町・七番町・九番町の5つに分かれ,九番町の端に喰違い土手があった一番町は長さ70間・幅6間,化政期の家数40軒(白河風土記)元禄6年「野郎が茶屋」から出火し,城内の一部と城下町の大部分を全焼した二番町は長さ98間・幅6間,家数72軒の侍屋敷町の中を横ぎる川の上下に水車が43軒あった三番町は長さ132間・幅6間,家数24軒,足軽長屋が雑居する七番町は長さ105間・幅6間,家数21軒,足軽長屋が交じる九番町は長さ138間・幅6間,家数45軒寛政3年,奥州街道両側に境明神まで2里の間,松苗を植林した南東約5丁に大沼陂(南湖)があり,谷津田川の支流が注ぎ込んでいる南方12丁ほどに,元禄年間家老早川茂左衛門が用水のため掘らせた茂左衛門池がある元文2年から寛保2年まで,1か月6回の馬競りが行われた二番町東裏側に曹洞宗万持寺と浄土宗妙徳寺がある七番町に金毘羅大権現があり,明治2年に琴平神社と改める明治7年の遠藤家文書によれば新町に四ツ谷・新家を加えて新町村といった旧福島県を経て明治9年福島県に所属同年,天神町ほか9か町村および学田新田の一部と合併して白河町となる...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

新町(近世)
江戸期の町名山城国久世【くぜ】郡宇治郷のうち宇治橋西詰に位置し,家並みは奈良街道の南北両側に続く東は橋本町,西は六番町,南は地蔵堂町に接し,北方には宇治七名園のうちの川下・宇文字の両茶園があった町名の由来は南方に並行する本町通に対して新しく開通した街路であることによるという承応3年の板倉重宗触状請書には「新町町代尾崎(坊)有庵・村山善入・吉村源介」の記載がある(京都大学所蔵上林文書)宗門改帳によれば天明3年には29軒・148人,元治2年には44軒・202人(住山時之介家文書)当町の北側に佐野道意・堀正法・長井仙斎,南側には八嶋宗応・長井貞甫・尾崎坊有庵など有力宇治茶師の邸宅が軒を連ねていたこのうち長井仙斎の屋敷は宝暦6年に宇治茶師頭取上林六郎家の買得するところとなり,寛政12年~天保14年には宇治郷代官所とされていた(宇治市史)なお同家跡は明治維新後昭和38年まで宇治町役場(のち宇治市役所)となり,また明治5~36年には菟道小学校が併設されていたこの上林六郎家の北方には延享3年以降幕府の御用茶壺を格納する御茶壺蔵が設置されていた(上林家前代記録)このように当町は宇治郷中でも有力な町であったことが知られるなお当町には寛永18年以降浄土真宗本願寺派薗林寺があったが昭和36年に移転した明治維新後町名は廃されたが,通称として残り,宇治橋通(旧奈良街道)の別称としても用いられている...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

新町(近世)
江戸期~明治8年の町名会津地方東部,磐梯山南麓に位置する耶麻【やま】郡のうち古くは更級荘に属したという会津藩領租税などの地方関係は川東組に属し,町政は町方に属したと思われる村高は,文化15年の村日記(県史10下)では862石余,「天保郷帳」748石余,「旧高旧領」では新町上分533石余・新町下分402石余当町の東側に九軒町,北側に堤町,南側に古【ふる】町があり,当町に属した享保3年の家数60軒・人数267,馬25,文化3年の家数43軒・人数172,馬20(小林家文書)化政期の家数63軒,九軒町10軒・堤町8軒・古町10軒(新編会津)本【もと】町とともに猪苗代城下の中心地で,3・8の六斎市が開かれ,川東組の郷頭も居住した猪苗代駅場で本町と半月交代で人馬継立業務をつとめ,若松方面へは大寺駅,福島方面へは酸川野駅,二本松方面へは都沢・関脇駅へ継立てた肝煎は古くは古川家,のち新町上が寿田家,新町下が奥田家寺院は新義真言宗豊山派西勝寺同寺は神宮寺の末寺と伝えられるまた境内の観音堂は猪苗代三十三観音第3番札所である慶応4年の産物は絹糸(猪苗代郷土誌稿)明治元年10月の村役人排斥の一揆で休役となった旧肝煎は,12月に帰役願を民政役所へ提出した(鈴木家文書)明治8年本町ほか1町3か村と合併して猪苗代町となり,新町上分の一部は西久保村ほか4か村と本町の一部と合併して磐根村となる...

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新町(近世)
 江戸期~明治初年の町名...

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新町(近世)
 江戸期~明治22年の町名...

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新町(近世)
 江戸期~明治4年の町名...

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