ケータイ辞書JLogosロゴ 高砂町(近世)


兵庫県>高砂市

 江戸期の町名。加古郡のうち。姫路藩領。初代姫路藩主池田輝政が慶長6年当地に高砂城を造営,家臣中村主殿介に禄4,500石,侍士100騎を与え目代として治めさせた。元和年間藩主本多忠政が城を取り壊し,町作りを行った。この時,町場を形成し,尾上付近の住民を移住させ,港町として再開発した。城跡には高砂神社(牛頭天王社)が社領30石を与えられて移転。なお,文禄の役では秀吉に徴発された水主100人のうち96人が溺死し,慶長2年以来秀吉から永代地子銭免除地とされていた(高砂雑志)。高は,「正保郷帳」では高砂村と見え317石余うち田255石余・畑47石余,天王社・十輪寺を合わせて15石,「天保郷帳」では単に高砂と見え724石余,「旧高旧領」も高砂と見え868石余うち天王社領30石・十輪寺領5石・渡守給3石。明和元年の地方明細帳では,高547石余うち本田413石余・新田134石余,ほかに塩浜13軒,高は2万130石があった。年貢率は定免7割4分で,小役銀として塩浜運上銀2貫521匁,ほかに塩鯛・塩鯖や建網・地引網などの漁業関係の運上銀があった(安政2年年貢米並ニ小役銀皆済帳/近世の高砂)。町場は東西382間・南北360間,面積13万坪余で,南北堀川・西堀川に並行あるいは交差する道路により碁盤目状に町割された。町方は東浜町・南浜町・東宮町・西宮町・南本町・北本町・南渡海町・北渡海町・戎町・田町・今津町・魚町・釣船町・狩網町・船頭町・猟師町・大工町・細工町・鍛冶屋町・横町・清水町・高瀬町・次郎助町・藍屋町・鍵町・農人町・東農人町・材木町の28町があった。ほかに当町地方に属する西之浜町がある。安永2年の棟数1,332,竈数1,936,店借864・人数8,097,職業別人口は船主293・百姓192・商人190・職人163・漁師115・船頭96・医師14,また,船数は405,うち廻米船8・渡海船180・回艜船35・小渡船26・漁船143・その他13(町方明細帳写)。町役人は大年寄4名・年寄8名で,町奉行監督のもとに惣会所において町政の実務を担当した。町大年寄は世襲制でなく,格式の高い富裕な町人層から選ばれ,交代で勤めた。また大年寄はもと無給であったが,文久3年以後3人扶持が給された(近世の高砂)。寛延2年までは高砂組支配の大庄屋が置かれたほか,地方庄屋1名が置かれた。川筋沿いに姫路藩の年貢米の収納蔵(百間蔵)があったほか,加古川流域の幕府領・諸藩領・旗本領などの年貢米を取り扱う大蔵元19株の収納蔵が堀川沿いにあった。また商品流通の統制のため,川口番所・津留穀留番所などの藩の役所,塩座会所,帆別会所など町方の会所が設置されていた。年貢米をはじめとする商品集散市場として栄えたため,宝暦年間には一橋家領今市村・中島村との間に川筋をめぐる商圏争いが,天保年間には当地の大蔵元など特権商人と加古川流域の新興商人との間に争論があった(近世の高砂)。また寛延2年の姫路藩一揆,天保4年の加古川筋一揆では襲撃地とされ,姫路藩一揆では大庄屋三浦甚兵衛ほか塩座役人・蔵番など6軒が打ち壊された。朱印船貿易の天竺徳兵衛,エトロフ築港の工楽松右衛門をはじめ,学者では菅野白華・三浦松石・小林梧陽・井沢灌園(儒学)・美濃部秀芳,画人では三浦旭映,俳人では田中布舟ら数々の文化人を生んだ。また文化年間には姫路藩校の支校ともいわれる申義堂学問所を開設して町民の教育も行い,三浦・小林・井沢・美濃部らの学者が教授となった。神社は高砂神社(牛頭天王社),東西の戎社,寺院は浄土宗十輪寺,同寺末寺の薬仙寺・延命寺・極楽寺・西福寺・観音寺・松楽寺・来迎寺,浄土真宗善立寺,浄土宗月西庵(寺),真言宗海宝寺で,観音寺・松楽寺・来迎寺・海宝寺は明治初期までに廃寺となる。明治初年からは当町の町方28町と地方の西之浜町はおのおの高砂を冠称。同6年仁・義・礼・智・忠・信・孝・悌の8小学校が開校。同9年8小学校が合併し,東宮町海宝寺跡に偕老小学校(のちの高砂小学校)開校,同16年高砂材木町に移転。明治14年の戸数1,595・人口6,255,田97町余・畑49町余・宅地21町余(播磨国地種便覧)。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7392744
最終更新日:2009-03-01




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