ケータイ辞書JLogosロゴ 千草町(近世)


兵庫県>千種町

 江戸期〜明治22年の町名。宍粟【しそう】郡のうち。明治以降は千草村と称した。もと豊臣氏蔵入地。慶長5年姫路藩領,元和元年山崎藩領,慶安2年幕府領,以後延享元年〜同3年出羽国山形藩領,宝暦2〜13年上野国高崎藩領,明和6年〜文政11年尼崎藩領となったほかは幕府領。村高は,「正保郷帳」546石余うち田483石余・畑63石余,寛保2年の「宍粟郡村々御高附」および「天保郷帳」ともに562石余,「旧高旧領」564石余。早くから町を形成していたと思われ,宝永5年片岡醇徳著の「播州宍粟郡誌」によれば,当町は商農が並び,あたりには村も多く,因幡・美作へ近く,鉄山もあって交易でにぎわい,酒屋が6軒あったという。また,万治〜元禄年間の過去帳を見ると,鍛冶・紺屋・炭屋・風呂屋(鍬・鋤の柄の下端と刃の間の木製部分を作る職)などの職名のほか,大門屋・伊勢屋など屋号付きが18戸あり,時代が下るにしたがい綿屋・仏師・塗師・木地屋・紙屋などの職名・屋号も増加する。周辺には鉄を吹いた山々があり,「察刀規矩」では「播州宍粟鉄又千草鉄という。水折れ折れ口白く光り至極細やかなるを上とす。備前の鍛冶多く此の鉄を使う」と記され,千草鉄は良鉄として名をなした。鉄山の盛時に鉄山荷物・商人荷物の集散地として町はにぎわった。農民も作間稼ぎに鉄穴流し・大炭小炭焼・鉄山や商人荷物の運搬などで現金の入手が容易であったためか,一揆・騒動が少なく,享保17年年貢銀納願越訴と,文政8年作州吉野郡で始まった百姓一揆に呼応して当地の百姓も庄屋宅を囲み気勢をあげた(平福光明寺過去帳)以外にはなかったようである。宝暦4年千草町大火で53軒が焼失。鎮守は大森神社,ほかに妙見社と八幡社。寺院は,教信上人開基で貞観年間の建立という安国山教信院西蓮寺。同寺は毎年3月9〜15日が千草念仏で,市も立ちにぎわったという(播州宍粟郡誌)。ほかに浄土真宗亀流山長永寺(もと真言宗)・連登山正福寺(もと天台宗,万治3年改宗)。明治15年周辺村々の鉄山が終焉。鉄山労働集団のほとんどが同21年までに,まだ製鉄操業の続いていた作州大茅村・上斉原村(現岡山県),また生野・明延などの鉱山へ移住。そのため諸物資集散地としてのにぎわいも激減した。同22年千種村の大字となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7393226
最終更新日:2009-03-01




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