ケータイ辞書JLogosロゴ 都染(中世)


兵庫県>加古川市

 南北朝期から見える地名。播磨国印南【いなみ】郡印南荘のうち。都染を含む加古川市上荘町の全域。康永2年5月20日付の赤松義則書下案に,「播磨国印南庄内報恩寺領殺生禁断事,任後宇多院御院宣厳重之旨,平・都染・益田・加納・西条・北条,限上者井岳下者加古川流,禁制処」と見える(報恩寺文書)。ただし,この文書には若干の疑いがある。「蔭涼軒日録」延徳2年10月15日条に,「播州都染内安養寺,自往古為長福寺末寺,進退之在所也,近年無謂他派僧住持,以故彼領主依藤弥三郎,同又三郎,両人方江遣一行,安養寺如先規長福寺為末寺可進退之由白遣也」とあり,近年他派の僧侶が長福寺末寺安養寺の住持になっているため,蔭涼軒主亀泉集証が都染の領主(地頭)である加東都東条谷の依藤氏に善処を求めている(大日本仏教全書)。天正6〜8年の三木合戦に別所方へ参戦籠城した「依藤ノ某」(別所長治記/群書21)は,東条谷の依藤氏ではなく,又三郎を祖とする都染の依藤氏と推定される。「播磨鑑」は,都染の城として,伊(依)藤小八郎の井ノ口構居,伊(依)藤大隅守時員のイサカ(井坂)構居の2城をあげており,依藤氏一族の在地支配は戦国期まで続いている。永正17年8月22日付で益田村名主沙汰人中にあてた赤松義村奉公人連署奉書には,「賀古河流,平・都染・益田三箇庄内,殺生禁断之処」とある(報恩寺文書)。加古川下流域右岸沿いに所在するこの3か荘は,印南荘であった。都染は,荘内では上流部にあたるため,上之荘と称された。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7393352
最終更新日:2009-03-01




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