寺本村(近世)
江戸期〜明治22年の村名。摂津国川辺郡のうち。慶長10年摂津国絵図には行基堂村と記される。また,中寺本村・東寺本村・西寺本村と三分されることもある。西国街道に沿う農村。はじめ幕府領,貞享3年武蔵国忍藩領,文政6年からは再び幕府領(天保11年からは高槻藩預り地)。村高は,「摂津高改帳」438石余,正保2年郷帳では東寺本村179石余・中寺本村98石余・西寺本村160石余の計438石余,享保20年郷帳・「天保郷帳」「旧高旧領」はともに483石余。鎮守は大梵天王宮(現猪名野神社)。寺院は真言宗昆陽寺とその塔頭寺院である正覚院・遍照院・一乗院・宝持院・成就院・勧請院がある。昆陽寺は行基開創の古刹として信仰を集め,「摂津名所図会」にも詳細な絵入りで紹介された。西国街道もこの境内を迂回して通っている。水利は新田中野村西野で武庫川から取水する昆陽井【こやゆ】と昆陽池による。文化2年昆陽池北堤の修復をめぐり,昆陽・千僧・池尻の各村とともに大鹿村と争い,文政元年和談。また,嘉永6年には昆陽池の支配を昆陽村の佐藤町から昆陽寺に変えるよう願い出た。正徳6年には東寺本村に江戸積酒造家がいた(岩田五郎左衛門文書)。寛政6年肥料高値に関する44か村の訴えに当村民も代表として参加した。寺本村の豪農前田家は,天保8年江戸城西の丸普請に100両,嘉永7年海岸防備に60両,文久2年江戸城本丸普請に100両,慶応2年長州戦争への出兵に200両をそれぞれ上納している。国学者で本居宣長に師事した夏目甕麿は,文政4年昆陽寺正覚院に寄寓し,「七月の記」を残して翌年没した。明治15年の戸数96・人口462。明治6年寺本小学校が開校,同17年蘊徳小学校と改称したが,翌年昆陽村の猪名野小学校に統合された。同22年稲野村の大字となり,当村飛地は武庫【むこ】村の一部となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7393529
最終更新日:2009-03-01