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「東条」の関連ワード⇒ 赤田組(近世) 飯詰組(近世) 石浜村(近世) 

東条


加古川支流東条川の上~中流域...

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[最終更新日:2009-03-01/JLogosid:7393576]
関連項目: 赤田組(近世) 飯詰組(近世) 石浜村(近世) 

角川日本地名大辞典(旧地名編)

日本地名大辞典に収録されているものの中から、現在以前のものを再編。

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東条荘(中世)

鎌倉期~戦国期に見える荘園名常陸国のうち弘安田文に「信太東二百七十丁二段大,信太庄六百二十丁内」とあり(税所文書/県史料中世Ⅰ),嘉元田文にも「一,信田東 二百七丁二反大,一,信田庄 六百二十丁内,本庄 四百十丁,加納二百十丁」と見える(所三男氏所蔵文書)当初は信太郡の東部を意味していたものが,次第に信太荘に対する信太東荘として区別されるようになり,小野川を境として西を信太荘と称し,東を東条荘と呼称するに至ったものと思われる立券荘園であった形跡はみられず,俗称とも思われるが,鎌倉中期に公田200余町が存在した点から,開発は早いと推定される当荘の開発経営に関係したと思われる東条氏は,常陸大掾氏の一族で,多気直幹の第三子五郎左衛門尉忠幹が東条に居を構えた事に始まる「鹿島大使役記」によれば,正嘉元年に東条兵部尉忠幹,文永元年に東条村五郎,文永8年に東条清幹,弘安元年に東条宗幹,正応5年に東条三郎,また,元応2年には東条高田,南北朝期の貞治元年には東条能登,室町期の応永11年には東条高田の名が見え,それ以外の年代には東条とのみ記されている(安得虎子)「新編常陸」には忠幹―光幹―清幹―宗幹と見え,以後世次不詳とするしかし,東条氏は7年に1度鹿島神宮の大使役を勤め得る基盤を東条荘に有する有力な氏族であった東条荘としては,「群疑論見聞」の識語として,「建長八年丙辰八月十六日,於常陸国東条庄小野郷書写之了,執筆良聖,時年廿三才也,聖忍」と見え(金沢文庫古文書),小野の逢善寺で良聖が書写している弘安10年11月日の善海戸帳送文案に「常陸国東条庄上条内祐村,例進御戸帳事,合壱疋〈但去今両年分也〉」と見え(熊野速玉神社文書/鎌遺16404),善海が去今両年分の戸帳1疋を熊野新宮に運上しており,当荘は上条と下条に分かれていた祐村の名は現在確認できないが,社村の誤りとすれば,竜ケ崎市八代に比定される建武元年12月日の鹿島大禰宜中臣高親社領并神祭物等注文に「南三昧院,用重名内……三鳥居,南,東条地頭,小野,押領之」と見える(塙不二丸氏所蔵文書/県史料中世Ⅰ)この頃鹿島社領の多くが,地頭によって押領されていたようで,この注文には,東条氏をはじめとする押領人の名が列挙されている鹿島大使役を勤める家として東条氏も鹿島社の周辺に屋敷などがあったものと思われる東条氏は南朝方に味方したようで,建武4年11月日の烟田時幹軍忠状によれば,東条城や亀谷城の東条一族に対するため,佐竹義春の軍勢に加わった烟田氏が当地において合戦し,7月から9月にかけて,富田胤幹以下が亀谷城に入り,東条荘周辺の南朝方と戦っている(烟田文書/大日料6-4)このような状況の中,北畠親房らが東条荘に漂着,神宮寺城に入り南朝方の活動が再び活発化する矢先,建武5年10月に佐竹勢が来攻し同城は落城,次いで阿波崎城も落城する(烟田文書/大日料6-4)この敗戦により,北畠親房は小田城に逃れ,東条荘周辺は,北朝方が優勢となった康永3年2月日の別府幸実軍忠状によれば,暦応4年9月には高師冬勢が,屋代信経の先導を得て信太荘・東条荘の南朝方の拠点である佐倉城・東条城・亀谷城などを次々と攻略する(集古文書/大日料6-6)暦応4年10月29日,別府氏などが信太荘や東条荘における北朝方の警固などに活躍し,高師冬より証判を受けている(別府文書/大日料6-6)興国元年10月10日の北畠親房御教書によれば,興国元年頃,南朝方が一時的には,亀谷城の北朝方を追出し,東条氏の一族の支配下においている(結城文書/栃木県史)しかし,康永元年10月16日の法眼宣宗書状に「東条一族多分ハ,最前変所存候」と見えるような状態であった(結城文書/栃木県史)その後,東条氏は鎌倉府の指揮下に入ったようで,貞治4年正月22日の鎌倉公方足利基氏御教書によれば,二階堂幸鶴丸の所領である久慈西郡の中寺田村を佐竹義篤らが常陸守護職を背景に押領しているので,宍戸安芸守とともに東条能登守が下地を二階堂氏に引き渡す遵行使の役を命じられている(武州文書)応安年間頃と推定される年月日未詳の海夫注文に「あはさきの津〈東条能登入道,一方難波知行分〉,むまわたしの津〈東条地頭,領家〉,……ふつとの津〈とうでう,一方東条能登入道〉,ひろとの津〈同人〉,ふなこの津〈同人〉」および「東条庄内一方,阿波崎津,馬渡津,福戸津,飯手津,大壺津」と見え(香取文書/千葉県史料),霞ケ浦に面した港があり,香取社に海夫役を納めていたさらに東条氏は,信太荘内の広戸や舟子をも知行下においていた円覚寺の造営に関する永和3年5月21日の雑賀希善請文,同年10月6日の関東管領上杉憲春奉書によれば,円覚寺造営のための棟別銭徴収が常陸大掾氏に命じられており,一族である東条氏が東条荘からの棟別10文の徴収にあたったことが推測される(円覚寺文書/神奈川県史)東条荘内の社村は,屋代越中守師国が知行していた応永30年8月日の烟田幹胤軍忠状に「八月二日以御意鹿島・行方・東条同心仁,向真城致忠節候」と見え(烟田文書),小栗満重の乱に際し,東条氏も鎌倉府の指揮下に入って活躍しているところが,応永31年正月23日の関東管領上杉憲実の奉行人長尾忠政の奉書に,「常陸国東条庄下条〈市崎郷〉⊏ ⊐参分□之事,為御料所々□置也」と見え(臼田文書/県史料中世Ⅰ),東条荘の下条に含まれる市崎郷の一部が鎌倉府の御料所となり,信太荘に本拠を有する臼田氏に預け置かれている市崎郷が東条荘の下条に属していたこと,先述の弘安10年の善海注文に見える社村が上条に属し,逢善寺に伝存する「胎灌頂私記」の奥書に,「天文三年甲午従老師令御本之伝受於下条高田青宿幸運寺……書写畢,金資亮遵三十四歳」と見えることなどから,現在の竜ケ崎市・新利根町のあたりを上条,東町・桜川村・江戸崎町のあたりを下条と想定できよう年未詳5月10日の左近将監重憲書状に,「就二階堂信濃守跡之事示給候……於東条庄内者,私先奉公之事候ヘ共,未被行御恩賞仁候」と見える(臼田文書/県史料中世Ⅰ)足利持氏の奉行人として知られる二階堂盛秀跡地をめぐって,東条荘の重憲なる者が臼田氏と対立し,鎌倉府の長尾氏に事情を説明して善処を願い出ている戦国期には,大永3年に屋代城周辺において,土岐原氏と小田政治との合戦があり(真壁文書ほか),この頃から土岐原氏の勢力が東条荘内にも浸透していく弘治2年に土岐治英が中心となり,馴馬に多宝塔を建立するが,その九輪銘によれば,「東条左近将監平朝臣英幹,東条泉元長居士妻女妙昌,同息平朝臣英重」をはじめとして,小林氏・塚本氏・内田氏・増尾氏・秋元氏・山崎氏・渡辺氏・浅野氏・海保氏など周辺の武士も数多く参集している(常総遺文)また,弘治4年3月7日の某判物によれば,東条荘の南側の常陸川に接した野地の開発も着手されている(大野文書)この様な動向と一体をなして,永禄11年5月1日に「東条之庄峯熊野権現宝閣壱宇」を土岐治英が大檀那として造立,天正15年に「東条之庄古渡峯熊野三社大権現」を土岐治綱が大檀那として造立し(安得虎子),さらに,永禄元年頃から土岐治英が定珍と師旦の契約をして,元亀元年には定珍を逢善寺の15代学頭として迎え,天正年間に入ると境内の整備を行っている文禄の太閤検地を機に当荘域は河内郡に属した慶長7年10月23~26日にかけて行われた高田の検地帳に「常陸国河内郡東条庄高田村御縄打水帳,九冊之内」と見え(岩月家文書),近世においても在地の呼称としては存続した現在の稲敷郡のうち,小野川を境として東南部の地域で,現在の浮島を除く桜川村・新利根町・河内町および竜ケ崎市・東町・江戸崎町の各一部が含まれる

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

東条(中世)
 鎌倉期~戦国期に見える地名...

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東条保【とうじょうのほ】
(中世)鎌倉期から見える保名...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典」

東条保(中世)
鎌倉期から見える保名射水【いみず】郡のうち「吾妻鏡」延応元年7月25日条に「越中国東条,河口,曽禰,八代等保事」と見えるのが初見同条によると,前年(暦仁元年)11月に上記4か保の地頭等が,将軍頼経の父である九条道家に対して,4か保を東福寺に寄進し,地頭請所として「京定米百斛」を備進したい旨の連署状を提出したこれについて12月には,国使の入部および勅院事以下の国役を停止するようにとの国司庁宣が出されているそして翌暦仁2年正月には,「任国司庁宣,地頭等寄進状,為東福寺領,停止勅院事国役等,為地頭請所,可令備進年貢百石」とし,東福寺に寄進するため相伝してきた九条家領越中国宮嶋保を「被糺返国領」ようにとの禅定殿下(九条道家)家政所下文が下され,それに対し了解した旨の将軍頼経の返事が出されたというのである建長2年11月日の九条道家初度惣処分状によると,東福寺惣社社領として「越中国四箇庄」が見え,これに「地頭請所,年貢百十石充社用,神主知行之」と注記されており,また前摂政一条実経(道家第3子)分の所領の中に「新御領」として「越中国四箇庄,地頭請所」とある東条保以下の4か保は,九条家を本所とし,地頭請所となって,「越中国四箇庄」と称されており,年貢110石が東福寺の惣社神用にあてられていたのであるまたこの処分状に「自関東伝領地,当時預所皆是給恩也,於勤厚之輩者,可有抽賞,於不法懈怠者,早可被改易所帯」と見え,「越中四箇庄」を含む「新御領」がこの関東より伝領の地に当たると思われる(九条家文書・東福寺文書/大日古20・県史中)「経俊卿記」建長8年6月2日条には,「参院,同(越中国)四ケ保事,内々可被尋申前摂政(一条実経)」と見える(図書陵叢刊)この「四ケ保」は道家から実経へ譲られた「四箇庄」に当たると思われ,まだ保と荘が併称されていたのであろう「東条庄」としての初見は南北朝期であり,興国2年正月30日の後村上天皇綸旨で,「越中国井水郡東条庄地頭職」を勲功賞として滝口彦次郎義弘に与えている(渡辺文書/松雲公・県史中)これ以後は単に「東条」と称されているだけである正平7年2月13日には,祇園社執行顕詮が静晴と執行職や東条,堀江荘などのことについて後村上天皇の綸旨を求めて争っている(八坂神社記録上/県史中)応永2年8月15日には,足利義満が佐野将教に「越中国東条南北」等を領掌させており,東条が南・北に分かれていたことが知られる(足利義満袖判御教書案・三宝院文書/県史中)応永19年9月11日には,東寺造営のための棟別銭が越中国に課されているが(足利将軍御教書案・東寺百合文書/県史中),10月22日東条など各地にあて課されている(東寺造営料棟別銭関係文書集・東寺百合文書/大日料7-17・県史中)その後,「親元日記」の政所賦銘引付(文明9年7月26日)には,「越中国射水郡東条之内三ケ村」の代官職であった三井弥次郎盛宗が,百姓を借銭請人に立てたため,逃散してしまったとして改易されている(続史料大成12)また内閣文庫所蔵「賦引付」によると,文明14年8月9日借銭の残り10貫文について「質券越中国東条三ケ村,但於所々者不知行」あり,文明年間には東条は3か村に分かれ,不知行の状態になっていたものと思われる現在の大島町から大門町にかけての一帯に比定される...

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東条(中世)
 鎌倉期から見える地名...

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東条(中世)
 鎌倉期から見える地名...

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東条荘【ひがしじょうのしょう】
(中世)平安末期~戦国期に見える荘園名...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典」

東条荘(中世)
平安末期~戦国期に見える荘園名水内【みのち】・高井両郡のうち「吾妻鏡」元暦元年2月30日条によれば,「信濃国東条庄内狩田郷領主職」は式部大夫繁雅の本領であるとの訴えにより,頼朝はこれを繁雅に環付している同書文治2年3月12日条所収の同年2月日の関東知行国乃貢未済荘々注文に「信濃国……〈八条院御領〉東条庄」,嘉元4年6月12日の昭慶門院御領目録に「一,安楽寿院領……信濃国東条庄〈繁世相伝知行不可有相違之由被仰了〉」と見え(竹内文平氏所蔵文書/信史4),当荘は鳥羽上皇が建立した安楽寿院領荘園で,鳥羽上皇から皇女八条院に相伝された建武5年3月18日以前,高梨定仏の娘源氏は弟忠保と「信州東条庄山田郷小馬場村」の在家田畠を争論していた(伊佐早文書/同前5)明徳3年3月日の高梨朝高言上状案に「東条庄内郷長郷事」と見え,高梨弥次郎以下が勲功の賞として拝領したと記されている(高梨文書/同前7)荘域については,嘉暦4年3月日の諏訪上宮五月会などの頭役について定めた鎌倉幕府下知案に当荘内として「本郷・甕・法連・新保郷」「小布施・部木田・治・真野・矢島・堤郷」「和田郷」「南大熊」「米持・南北原郷」の郷名が見え(守矢文書/同前5),下って天正6年の上諏訪大宮造宮清書帳には外垣20間を負担した当荘のうち,和田之郷・尾張辺郷・今井之郷・石和田(石渡)郷・南堀之郷・徳長之郷・飛岳(富竹)之郷・小島之郷・北村之郷・北堀之郷・宮之郷・今井分・飯田之郷・小布施【おぶせ】郷・江辺之郷・新法(保)之郷・北大熊之郷・狩田之郷・北小河原郷・南小河原之郷・北駒沢之郷が見える(信叢2)現在の小布施町を中心に,南は現在の須坂市米持【よなもち】以北,北は現在の中野市南西部,西は千曲川を渡って現在の長野市東北部が含まれ,当荘はこの地域に散在していたと思われるなお前述の嘉暦4年の鎌倉幕府下知状案に2番五月会分として「狩田郷内東条村」が見えるが,当荘名は同村名に由来するか...

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東条郷(中世)
 戦国期に見える郷名...

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東条村(近世)
 江戸期~明治22年の村名...

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東条②【ひがしじょう】
奇妙山・尼巌(あまかざり)山・可候山・皆神山山麓,千曲川支流藤沢川流域に位置する...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典」

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