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「同心町(近世~近代)」の関連ワード⇒ 赤田組(近世) 飯詰組(近世) 石浜村(近世)
同心町(近世~近代)
江戸期~現在の町名江戸期は姫路城下の1町武家地明治初年~明治22年は姫路を冠称姫路城の北東町名の由来は,町方の治安業務を取り扱う町方同心が居住したことによる(市...
[最終更新日:2009-03-01/JLogosid:7393586]
関連項目:
赤田組(近世) 飯詰組(近世) 石浜村(近世)
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![]() | 同心町(近世~近代) 江戸期~昭和45年の町名および地域称江戸期は仙台城下町の1つ明治11年宮城県仙台区に所属同22年からは仙台市の町名町名は江戸期に当町周辺に同心屋敷が置かれていたことによる寛永18年に伊達郡梁川【やながわ】より遷座された八幡宮は,天和3年川内に移転その跡地に同心組屋敷が配された(仙台鹿の子)同心は町奉行の配下に属し,警察の任に当たるもので,初期には30人,後期には50人いたとされている元禄から享保の間に作製の絵図によると,今八幡ならびに別当千手院跡は細かに割られており,等覚院・安楽寺にまじって御町同心屋敷が見えるこの一部,南寄りの小路を同心町中丁と称した明治13~27年に地区の中央を横断する形で,東三番丁~外記【げき】丁間に定禅寺通が延長された同16年には,県立宮城病院が東一番丁から大聖寺東隣にあった観音寺跡に移転し,同21年には同じ構内で元貞坂方面に移される大正2年その跡地に東本願寺別院が移転同11年定禅寺通に面して仙台育英中学校が開設また戦災によって壊滅した後,この地には仙台市のレジャー・センターがたてられ,さらにこれに隣接して武道館も設立されて,その周辺は錦町公園となった昭和45年住居表示施行により,同心町中丁は現行の本町2丁目となる |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 同心町(近世~近代) 江戸期~昭和16年の町名江戸期は和歌山城下新町のうちの町人町で,明治12年和歌山区,同22年からは和歌山市の町名となる和歌山城の東部,和歌川に架かる大橋東詰から東へのびる田中町筋のうち西田中町南部に位置する北一里山丁から東へ「凡七十間余」の町並みであった(此度丁名相増又者相改候略図/田中家文書)もとは裏町の一部文政13年小名をとって町名とし成立(御城下内町名唱替御通し写/秦野家文書)裏町に含まれていたころは新町年貢を納入し,町入用は,間打で惣代給を,棟役で火事場人足・水出人足を負担したが,古町よりその負担は軽かった(神保家文書)これらは文政13年以降も変わらなかったと思われる町名から同心組が居住していたと思われるが,その組名は不明明治2年になって諸同心組地は町方へ移管されて町名が付されており(町大年寄御用留/和歌山市史5),この点から当町では組屋敷を形成していたのではなく,町人町へ同心が混住していたと思われる明治6年には戸数74,男141・女135大正2年47戸・241人昭和16年田中町2丁目・木広町2丁目となる... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 同心町(近世~近代) 江戸期~大正5年の町名江戸期は城下町伊勢崎の町人町伊勢崎城下の北東部にあたり,紺屋町の東に南北の町並みを形成「伊勢崎風土記」に町名が見えるが,寛永年間以前には紺屋町新邸と呼ばれていたとある(県史料集2)寛永19年の検地帳(伊勢崎市立図書館蔵文書)に町名は記されないが,ただ名請人のいない空閑地39筆のなかに「紺屋町うら新屋敷西かわ北より新屋敷」の16筆と「こんや町うら新屋敷東かわ北より新屋敷」の16筆が見えるまた慶長年間に東方から天台宗中台寺が移転してきたが,同検地帳の字名の1つに「中台寺門前」も見えている「伊勢崎町新古日記」によると,享保12年時の鐘が建立されて中台寺境内大日堂預りとされている(同前)なお明和6年この鐘楼から出火している「伊勢崎町新古日記」の宝暦13年屋並間数・軒数等書上によれば,間数は八軒町角から上の角まで162間,家数47うち店借3明治3年藩士土着のための建家8戸が建つ同18年の戸数63同44年の戸数140・人口728町名は,明治22年から伊勢崎町の通称町名として存続大正5年立花町と改称... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 同心町(近世~近代) 江戸期~昭和42年の町名明治22年頃一時期米沢を冠称江戸期は米沢城下のうちで侍町の1つ明治22年からは米沢市の町名米沢城下西北部に位置する地名の由来は,道心坊と称された寺があったことによる(旧米沢市町名の由来)北同心町(米沢雑事記),北道心町(弘化3年屋敷割帳)ともいい,道心町(享保10年絵図)とも書く北を冠称したのは南新町南裏にあった南の道心坊と区別するため享保10年の御城下屋敷数書上帳(県史16)では,三の丸外・北に位置し,長さ4町28間・道幅3間,家数64軒弘化3年には,御仲間役人屋敷11軒をはじめ足軽などの屋敷48軒,明屋敷17軒当町の北裏に同心焼の陶器製造所が設置され,同心唐鉢・すり鉢・水がめなどを製造した明治11年の一覧全図では,反別1町5反余,戸数21・人口73昭和35年の世帯37・人口182北の道心坊・北の庵のあとに浄土真宗(大谷派)昌願寺が本五十騎町より移建昭和42年成島町3丁目・信夫町【しのぶまち】の各一部となる... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 同心町(近世~近代) 江戸期~昭和41年の町名江戸期は金沢城下町のうち明治22年からは金沢市の町名春日東4丁目の北方にあって,山の上町に接している町名の由来は,藩政期多くの同心(加賀藩では足軽の一種)が住んだための命名だと考えられるが不明「皇国地誌」では「山ノ上町四町目ノ北ニアリテ山ノ上村ノ領地ニ突出ス」と見える大正5年の戸数・人口は0昭和41年小金町・春日町となる... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 同心町(近世~近代) 江戸期~昭和39年の町名江戸期は新発田【しばた】城下の1町武家屋敷地町名は,同心が居住したことに由来する広小路から馬場町に並行して小人町に抜ける町並みで,当町には牢屋があった明治22年新発田本村,同34年新発田町,昭和22年からは新発田市に所属世帯数・人口は,昭和6年39・168,同30年43・105昭和15年他門,同39年大手町1~6丁目となる... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」