ケータイ辞書JLogosロゴ 豊福荘(中世)


兵庫県>佐用町

 鎌倉期に見える荘園名。播磨国佐用【さよ】郡のうち。最勝金剛院領。建長2年11月日の九条道家惣処分状に「播磨国豊福庄」と見え,当荘の年貢は最勝光院の寺用に充てられること,本家職は道家の子一条実経が所持すべきことが定められている。当荘はもと和泉国禅興寺領で,九条家領であった伊賀国音波荘と相博され,九条家領となった(九条家文書/鎌遺7250)。ただし,同文書には「播磨国佐用庄内東庄・西庄・本位田・新位田・豊福村・江河村・赤松村・千草村・土万村」とも見え,豊福村は佐用荘に含まれている。以後の伝領過程は未詳。室町期成立の「天陰語録」によれば,貞和5年足利尊氏は「播州佐用豊福之村」を赤松敦範に与えたという(続群13上)。なお,赤松則村の弟別所円光の子五郎左衛門敦範が足利尊氏に仕え,戦功により,江川の豊福,平福の田住の2荘を受け,はじめ豊福荘に豊福構を作り,のち平福に利神城を築き,山下に別所の構を作ったという。この別所氏は,のち天正5年11月羽柴秀吉の上月城攻めで兄定道は帰服,弟林治は再び秀吉に叛き,天正6年正月上月城の山中勢と戦い敗れ,のち長水城に逃れ,天正8年5月長水落城後没落した。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7393785
最終更新日:2009-03-01




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