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長井村(近世) 江戸期~明治22年の村名 |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
長井村(近世) 江戸期~明治22年の村名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
長井村【ながいむら】 (中世)室町期から見える村名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典」
長井村(中世) 室町期から見える村名加賀国河北【かほく】郡のうち応永5年8月15日付明峰素哲法弟連署状案に,「加州河北長井村竜聖寺弁翁和尚,現住守忍判」とあるのが初見(永光寺中興雑記)永光寺,大乗寺に住した明峰素哲派下の弁翁忍性が,ここに竜聖寺を開いたことが知られるが,竜聖寺は天文初年まで存続したすなわち天文6年5月14日条に「二条殿被仰候,浄福寺領,竜聖寺領近年退転候間下知」とあるこれは「天文日記」同年5月11日条に「二条殿御領事」について申し付けが求められたのに対するものであるから,長井村は二条家領竜聖寺もその外護を受けていたと考えられる長井村はまた長屋村とも呼ばれた(郷土辞彙)とすれば,至徳2年4月27日付斯波義将安堵状(東寺文書)に,東寺鎮守八幡宮料所として見える「長屋村」が初見となり,古くは東寺領であったことになるこれらはいずれも実体が失われたようで,「天文日記」では幕府奉公衆の知行と見え,しかも在地勢力に押領を受けている天文5年10月22日条に,奉公衆町野左近大夫将監の知行申付け依頼のうちに「長屋村」,同じく奉公衆海老名次郎の知行申付け依頼のうちに「長屋村宝光寺分」があり,同月28日条で申し付けられているこれらは,町野の知行が「近年不知行」とあるような状態であったが,それは天文7年10月11日条に,近隣の小坂伝灯寺花蔵院住持職に干渉したと見える「長屋番頭」,あるいは同8年10月10日条に,幕府御料所七か所のうち「長井村」の去年分を不沙汰したと見える「行重藤次郎」などの抵抗を受けたものであろうここにはまた真宗寺院が成立していた天文10年8月16日条,同15年2月23日条に「長屋西勝寺」が本願寺に上番したことが見える西勝寺(現金沢市瓢箪町)は永徳元年あるいは正中7年,長屋に開創され,正徳2年までここにあったという(金沢市史)永正~享禄期の「超勝寺本覚寺下坊主書上」(本願寺文書/富山県史中世)に「長屋西勝寺」と見えている... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
長井村(近世) 江戸期~明治22年の村名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
長井村【ながいむら】 (近世)江戸期~明治9年の村名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典」
長井村(近世) 江戸期~明治9年の村名水内【みのち】郡のうち「正保書上」には「永井村」と見えるが石高其外相違之覚の項に文字の誤りとされている犀川と土尻川に挟まれた丘陵地に立地し,旧大町街道の道筋にある松代藩領村高は,「慶長打立帳」345石余,「正保書上」「元禄郷帳」ともに352石余,「天保郷帳」455石余,「旧高旧領」491石余元禄年間の枝村は梨木平・中長井・松之木・上長井・未那板・江見・舟渡の7か村(絵図仕立帳添目録)安政3年の戸数118(領内村々家数留/県史近世史料7-1)文化6年の人口511(封内人員)慶応4年の戸数116・人口566(家数等御改帳)堂宮は,元禄10年観音堂ほか5堂と諏訪大明神ほか15社,いずれも個人持ちで,文政7年村持ちとなる(堂宮改帳)天明4年の山中騒動では当村の武七が群衆に推され酒屋・揚酒屋の廃止,運上金の廃止を訴願した(山中騒動記)弘化4年善光寺地震では家数110余のうち倒壊流失68・死失20人,犀川の水押し,山抜けのため田畑の被害甚大であった(むしくら日記)嘉永3年の宗門帳作成額は5貫827文,このうち中組1貫352文・上組1貫862文・下組2貫604文を分担した(宗門掛夫銀帳)明治4年松代県を経て長野県に所属同6年の戸数115・人口586主な物産は大麦・大豆・粟・煙草・皮楮・木綿布(癸酉年物産御書上控)明治8年学区は中条小学に属し,のち文昇学校(笹平村)に変更同9年日高村の一部となる... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
長井村(中世) 室町期から見える村名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
長井村(近世) 江戸期~明治22年の村名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
長井村【ながいむら】 (近世)江戸期~明治12年の村名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典」
長井村(近世) 江戸期~明治12年の村名牟婁【むろ】郡のうち赤木川上流に位置する和歌山藩新宮領大山組に所属村高は「天保郷帳」では99石余,「旧高旧領」では96石余なお明和~寛政年間ごろの家数80軒,村高67石余で免5ツ5分(紀州新宮領分見聞記/続熊野の史料)もとは赤木村のうちであったが,元禄年間以後に分村したといい(続風土記),「天保郷帳」には「赤木村枝郷」と見える村名に関して,「続風土記」には「此地に十四,五町の堰筋あり,長井の名,是より起る」とある大雲取・小雲取のふもとの村で村内を熊野街道(中辺路【なかへち】)が通り,小名に小畔・小口がある小口は,熊野街道沿いにあり旅籠が10軒あった(続風土記)また小畔は小雲取越えの入口に位置し,小和瀬とも書く往還の峠には桜の大木があり,桜茶屋と呼ばれる一軒家があったなお地内の神社としては,明治初年に高倉社があった明治4年新宮県を経て和歌山県に所属同6年には戸数34,男59・女56同12年上長井村と改称... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」