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中町(近世) 江戸期~明治8年の町名高遠【たかとお】町のうち町方10町の一つ鉾持村内,伊那と諏訪を結ぶ杖突街道沿いには古くから寺社の門前町や宿場が街村を形成していたが,寛永年間頃,城郭に接していた旧城下町をこの低地に移し,中央部分に大手門からみて東西一直線に大道を開き,中央に本町,西方に下モ町(霜町)を置き,その間を中町とした町の長さ58間1尺,横小路38間1尺(高遠地方旧記)享保20年の町方御用帳による坪数2,839坪商家の様子は,間口3~6間を平均に,切妻造り,長板葺石置屋根,格子造りの低い2階屋で,庇にのれんを掛け,入口は板大戸,店間は座敷売り,土間が裏の中庭に通じて倉が建っていた(高遠探勝絵巻)元禄10年の家数間数帳で商家23軒明和年間には30軒と増加天保6年の人口130,内訳は男60のうち下男12,女子54のうち下女4(高遠町誌)町方は地子免除の無高地だが,運上金や諸役金などのほか,間数に応じた伝馬役・人足役が課せられた当町は伝馬役で,元禄10年には本伝馬役18軒・半伝馬役8軒であった明和8年には本伝馬役が22軒に増加,本町をしのいだまた中馬荷物を扱う諸荷物問屋が,天明4年には1軒あった問屋・名主の3人からなる町方三役のもと,町内全戸の投票で町代が選ばれ,藩の任命により町の事務をとった当町の町代は2名富裕な町で,在郷に土地を所有して小作米を収納する豪商も現れ,元禄・天保・慶応などの大飢饉にも,町内から1人の御救いをうけた者も出さなかった幾度かの火災にあい,天保5年・文久3年には全町を焼失し,やがて家数26戸と減少するが,嘉永3年32軒,明治3年36軒と復興もはやかった同8年西高遠町の一部となるなお,その後も商業の中心地として栄え,現在も中町商店街の名が残る |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
中町(近世) 江戸期~明治9年の町名中通り南部,阿武隈【あぶくま】川の支流谷津田川流域に位置する白河郡のうち白河藩領小峰(白河)城下郭外のうち村高は,古領高長では813石余,「天保郷帳」「旧高旧領」ともに中町村とあり868石余城下追手口にあり,城の西南にあたり天神町に続く長さ278間・幅6間町名は城下町の中央にあることにちなむ奥州街道沿いの町で宿駅があり,往来旅客の人馬継立を行った江戸から白河城下までの27駅は道中奉行の管轄で,もとは表町の庄屋が月代わりに駅に出て役をつとめたが,宝永7年から定問屋となり常盤彦右衛門が世襲となる化政期の家数118軒毎年正月14日(旧暦)高札場のそばに伊勢神明の仮屋を営み,市が開かれた造花を巻藁にさして売る店が多いため花市ともいった初市の祝儀として惣町から樽肴を献上した(白河風土記)鎮守は城の東にある鹿島神社城の西南表の中町に対して裏町に当たる大工町は,東西へ長く高札場の南にあり長さ160間・幅4間3尺化政期の家数61軒寺院は浄土真宗本願寺派常瑞寺・臨済宗皇徳寺大工町の付属町に東蓮寺横町があり家数28軒(白河風土記)中町から天神町の南裏に添い,大工町の西隣に愛宕町があり,町中にある西光寺が城下愛宕神社の別当であったことから町名となる長さ158間・幅4間2尺,化政期の家数78軒城の東南の裏町新蔵【しんくら】町は長さ118間余・幅2間5尺,家数58軒(白河風土記)明治7年の遠藤家文書によれば,中町村は中町・愛宕町・大工町・新蔵町となっている旧福島県を経て明治9年福島県に所属同年天神町ほか9か町村および学田新田の一部と合併して白河町となる... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
中町(近世) 江戸期~明治8年の町名江戸期は松本城下のうち町人町の一町親町3町の一つ東西148間・南北34間中町の枝町は飯田町・小池町・宮村町の3町が南にのび,北には新小路・一ツ橋小路・神明小路,上ノ丁に本立小路があった道幅は1丈2尺3寸と狭かったが,安永5年の大火の際に4間に拡幅された家数は寛文4年111軒,享保9年106軒町割りは,半役を負担する3間間口が最も多く,寛文4年49軒,享保9年42軒であったまた,6間間口が14軒から21軒と増加している10間間口以上は寛文年間には2軒であったものが,6軒に増加している10間間口は山屋弥市・藤森太兵衛,11間半は玉屋源七・檜物屋六兵衛・三河屋与右衛門,12間間口はわたや平右衛門で,いずれも荷物問屋か町役人であった荷物問屋の数は宝暦6年には,本町16,中町12,安原町博労町各1で本町・中町が圧倒的に多く,両町が松本城下の経済活動の中心であったことがわかる一方中町は職人の町でもあった中ノ丁から東に多く,桶屋5軒・豆腐屋3軒・かじや2軒・とぎや4軒,仕立屋・大工・建具屋・鞘師・柄差・畳屋・つけ木屋各1軒となっていたまた新小路・一ツ橋小路には魚屋があった小池町入口角には夜番所が置かれており,昼1人,夜2人が番に当たった大橋の西際には木戸があり,暮れ6ツには閉められた鍵は東町番所で管理した明治8年南深志町の一部となる... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
中町(近世) 江戸期の町名挙母【ころも】城下八町の1つ古くは北町といい,天和年間頃改称したといわれる城下の中央部に位置し,町名のとおり中心をなしていた延宝年間の城下絵図によると,北町と見え,陣屋(のちの桜城)の北に位置し,東西に町並みが延びていた東端を南に折れると南北に延びる本町があり,北には平行して神明町が通っていたまた,西端に洞泉寺が見えるなお,この絵図に新町とあるのは天和年間以後北町と改称しており,当町の旧町名を引き継いだものといえようこの絵図による家数は58で,うち萱屋7・板屋48・瓦屋1,また座敷を持つ家は9軒とあり,城下の大部分が茅葺の家で内部は板の間か土間しかなかったなかで,当町は板屋や座敷のある家が多く,富裕な町人が多く住んでいたことが知られる(豊田市史2)本多氏時代には10日・20日・晦日に市が立ち,にぎわいをみせた寛延2年頃の家数は85で(同前),延宝年間と比べると家数が相当増加している同年頃に挙母九人衆と呼ばれていた富家のうちに当町の緒川屋川上七右衛門の名が見える(七州城沿革小史)同3年の高は414石余(豊田市史7上)宝暦13年5軒の遊女屋が営業を開始正和2年創建といわれ挙母藩主内藤家の菩提寺である浄土宗紫雲院洞泉寺があったなお,挙母城下は明治4年挙母村となり,当町もその一部となる... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
中町(近世) 江戸期~明治9年の町名須賀川宿4町の1つ中通り中部,阿武隈【あぶくま】川と釈迦堂【しやかどう】川にはさまれた台地に位置する岩瀬郡のうち古くは牛袋【うしぶくろ】荘川中郷に属したというはじめ会津領,寛永20年からは白河藩領天正17年須賀川城落城後,奥州街道の改修に伴い,旧須賀川城内二の丸に中宿から町家を移して中町とした(野川本藤葉栄衰記)村高は,古領高長では946石,「元禄郷帳」「天保郷帳」では本町・北町・道場町とともに須賀川村として記載されている寛保2年の家数202軒,人数男472・女408上杉氏支配の時代,牛袋村から諏訪神社を遷宮して総社とし,天台宗千用寺を移転させて別当としたまた城内には天台宗妙林寺があった街道の中央に高札場があり,この西側に問屋があった中町のうち東町には町会所があり,内藤平左衛門を中心に町政が行われた豪商であった平左衛門は間引きを防止するため,私財をもって赤子1人に1両を与えたが,のちにこれは赤子養育金として制度化されたという明治9年本町・北町・道場町と合併して須賀川村となる... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
中町(近世) 江戸期の町名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
中町(近世) 江戸期の町名大洲【おおず】城下の町名の1つ町名の由来は城下の町人町の中央部にあることによる北側の本町,南側の裏町と並行した東西の通りで長さは3町余寛永20年の「大津惣町中之絵図」(大洲町役場旧蔵)によれば,北側に39軒,南側に47軒の町家があった慶安4年の「大洲町十人組帳」(菅菊太郎氏所蔵)によれば,十人組が12組,町人108人が住んでいた幕末期の「大洲町内図」(滝正市氏所蔵)によると,この頃中町は西から東へ1~3丁目に分かれ,1丁目の戸数は45戸,町人で姓のあるもの8人,2丁目は35戸,番所1,町人で姓のあるもの8人,3丁目は37戸,番所1,町人で姓のあるもの2人と見える当町は,本町3丁目・志保町とともに城下町中でもっとも市況が活発で,肱川河原の牛市の繁昌も手伝って,飲食店・たばこ屋・酒屋・米屋・呉服屋・唐津屋・薬屋・小間物問屋などの商家が軒を並べていた現在の大洲市大字大洲のうちの通称として残る... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
中町(近世) 江戸期~明治22年の村名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
中町(近世) 江戸期~明治8年の町名会津地方東部,磐梯山南麓に位置する耶麻【やま】郡のうち古くは更級荘に属したという会津藩領川東組に属す村高は,享保3年185石余(小林家文書),文化15年の村日記(県史10下)では新町とともに862石余,「旧高旧領」183石余当町は見禰村の小名であるが,猪苗代城下に属した町名は土【はに】町と新町の中間に位置することによる(新編会津)享保3年の家数47軒・人数160,文化3年の家数14軒・人数40(小林家文書)化政期の家数13軒(新編会津)肝煎は宇幸山家と五十嵐家寺院は浄土真宗樹林山西円寺・本山派修験成就院明治元年10月の村役人排斥の一揆で休役となった旧肝煎は,12月に帰役願を民政役所へ提出した(小林家文書)明治8年本【もと】町ほか1町3か村と合併して猪苗代町となる... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
中町(近世) 江戸期~明治7年の町名今庄村に形成された今庄宿6町の1つ仲町とも書く町名の由来は今庄宿のほぼ中間にあることによるという宿は西谷川による扇状地性低地に形成され,町並みは扇端の日野川の氾濫原より2~8mも高いが,中でも当町が最も高いところに位置し,南部の上町,北部の古町にかけて下り坂となっていた町並みは南北に約250m続き,道幅は周辺部の2,3間に対し,約5間と広い大庄屋と本陣を兼ねる後藤覚左衛門の家があり,本陣は間口10間余り,奥行37間もあったその斜め向かいに脇本陣の新兵衛家があり,駅務の管理に当たる問屋大野屋・谷屋,高札場や御札宿もあり,宿の中心地としてにぎわった明治7年の市街地名改正により白鬚町の一部となるなお当時の中町の戸数71... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
中町(近世) 江戸期~明治14年の町名若狭国大飯【おおい】郡のうち高浜村の町方小名の1つ幕末頃の高浜村町絵図(高浜町誌)によれば,城山に至る道沿いに位置し,西は大西町,東は本町,南は今在家町と接し,本町の辻から当町西端夜番所まで1町18間とある家数などは,貞享元年の高浜万覚書(時岡家文書)によれば,屋敷40軒,地子は13石2斗9升3勺を上納し,1升5合6勺は免除,町肝煎給分52匁5分,35軒で負担とある享保2年の家数38(高浜町誌)天明5年の戸数39,人口167うち男86・女79・僧2(常田家文書)寺院は真宗大谷派西恩寺永正年間の開創で開基は了妙,のち天正12年に堀尾吉晴が山林竹木諸役免除の免許状を出している(若州管内社寺由緒記)明治14年三明町の一部となる... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」