ケータイ辞書JLogosロゴ 中三河村(近世)


兵庫県>南光町

 江戸期〜明治22年の村名。播磨国宍粟【しそう】郡のうち。延宝年間までに三河村が上三河村・下三河村と当村に分村して成立。はじめ幕府領,延享元年出羽国山形藩領,同3年からは幕府領(一時期姫路・三日月・館林各藩の預り地)。村高は,延宝検地帳控および,「天保郷帳」「旧高旧領」ともに377石余。寛政6年の宗旨人別帳によれば,家数51・人数184,牛16・馬2。村人の生業は米・麦・大豆・蕎麦・稗などのほか,タバコの生産も行われていたと天明3年の文書に記される。また作間稼に薪・木炭を作り,主として下徳久村の大田井や久崎から高瀬舟で出荷した。鎮守は大森神社。由緒書によれば弘安年間千種川が氾濫し,上流の千種町の大森神社の神体が流れ,数日後当村の淵の下河原で馬がいななくところで神体を得て祀ったといい,以後この淵を馬嘶淵【まさいぶち】と呼ぶようになった。同淵には河童の駒引き伝説があり,馬螺が淵とも呼ばれるという。明治22年三河村の大字となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7394146
最終更新日:2009-03-01




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