- JLogos検索辞書>
- 奈良尾村(近世)とは
「奈良尾村(近世)」の関連ワード⇒ 赤田組(近世) 飯詰組(近世) 石浜村(近世)
- amazon商品リンク
奈良尾村(近世) 江戸期~明治7年の村名小県【ちいさがた】郡のうち上田盆地南部,塩田平の東南端,独鈷【どつこ】山系富士岳山麓に位置する北流する駒瀬川と雨吹川の流域に形成された扇状地に東奈良尾・西奈良尾の集落が,また両集落を結ぶ横道に中奈良尾の集落がある上田藩領郷帳では,町屋村とあわせた東松本村として記載され,「旧高旧領」で村高574石余ただし,元和2年に東松本村は奈良尾村と町屋村に分村,それぞれ村役人が置かれて,一村として機能した(県町村誌)元禄7年中山道和田宿・長窪宿の助郷村に定められ,その助郷高395石また両宿の道造掃除人も割当てられた(上田小県誌)宝永3年の家数98・人数396,馬55,諸役として馬飼料苅豆・大豆・馬草・すくりわら・ふきかや・渋柿・ぬか・すさわら・薪・漆を上納した(上田藩村明細帳)また諏訪部の橋掛人足や諏訪部船頭切米も割当てられた大工・木挽・鍛冶が各1人おり,耕作の間に紙漉,女稼ぎとして木綿織,男稼ぎは木草取りなどが行われた村内に禅宗東照山大円寺,さしば小社・神明宮・神明小社・さおふ権現小社・飯縄小社などがあった(同前)明治4年上田県を経て長野県に所属江戸中期より養蚕業が広まり,さらに幕末には蚕種業も発展,明治6年の蚕種製造戸数は春種18戸であった(上田小県誌)同7年富士山村の一部となる |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
奈良尾村(近世) 江戸期の村名水内【みのち】郡のうち裾花川に支流楠川が合流する地の北に位置する江戸初期に栃原村から分村して成立戸隠山神領村高は,「正保書上」では上野村1,000石に含まれると思われ,「元禄郷帳」53石余慶長17年の戸隠山宛徳川家康寄進状(県史近世史料7-1)では,栃原村のうち下楠川・宇和原・奈良尾と上野村の合わせて800石が新たに戸隠山神領として寄進されている元和8年の惣高割之覚(上内郡誌)では当村の高49石余が記される「天保郷帳」では下楠川村211石余に含まれ,古くは下楠川村・宇和原村と当村の3か村とあり,天保年間に下楠川村の一部となっていたことが知られるなお,当村の地は天保15年上野村の一部と合併して日照田村となった... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」