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- 西本庄村(近世)とは
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西本庄村(近世) 江戸期~明治9年の村名播磨国加古郡のうち播磨灘に面する寛文10年頃本庄村が東本庄村と当村に分村して成立(庄屋文書)姫路藩領村高は,「天保郷帳」「旧高旧領」ともに550石余宝暦7年の村明細帳によれば,村の規模は東西70間余・南北50間,高543石余,家数119・人数490嘉永2年では高543石余,人数485(大歳家文書)当村は渡海船8(10~100石積)を保有し,穀物・塩・薪・干鰯・莚などの商売に摂州・泉州・紀州・長州下関まで航海したほか,摂州の大坂・伝法への旅人や諸物資の運賃積みに従事した浦方水主米13石余,浦方水主役高10人3分半,ほかに朝鮮信使の来朝・帰帆時の御用水主,長崎奉行・公儀御上使の通船などの漕船御用などに多大の出費をしている池は石ケ池1か所のみで,田の用水には明暦2年完成の新井【しんゆ】水道などに頼った地内の寺社は,真言宗蓮花寺(寺領10石),曹洞宗少林寺,同宗善良庵(無住),地蔵堂,住吉神社(社領10石),恵美須社であった(宝暦7年村明細帳)明治9年本庄村の一部となる |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」