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- 長谷村(中世)とは
「長谷村(中世)」の関連ワード⇒ 赤田組(近世) 飯詰組(近世) 石浜村(近世)
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![]() | 長谷村(中世) 鎌倉期~南北朝期に見える村名尾張国中島郡のうち延慶2年11月3日尾張宣俊は,養子中島秀宣に,「尾張国中島郡長谷村」内藤内太郎屋敷1町,藤内入道屋敷4反,倉垣内4反を譲った(妙興寺文書/一宮市史資料編5)正和3年3月13日には,宣俊は秀宣へ,当村内藤原入道屋敷1町,政所垣内1町,倉垣内6反,茅原垣内4反を27貫文で売り渡している元弘2年正月11日,尾張斎俊は当村藤内入道垣内5反を,本銭返しとして6貫文で秀宣へ売った元弘3年8月9日斎俊は秀宣に対し,当村内藤内入道屋敷の並びの南の畠地4反を譲り,同地に続く畠地4反を8貫文で売っている当村内の地はその後妙興寺へ寄進されたようで,文和2年以降の妙興寺領に,中島宗竺寄進分として「長谷〈屋敷〉」1町が見える(同前)比定地未詳 |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 長谷村(中世) 戦国期に見える村名美作国真島郡のうち文明14年8月10日の檀那村書注文に「長谷之おこ」,同年月日の檀那村書の高田のうちにも「長谷之おこ」,天文14年2月吉日の檀那村付帳に「一,〈いわらいまハたいてん〉なかたに村一ゑん」とあり,井原のうちに属し,当時は播磨広峰社の檀那村としての実質が失われたらしい(肥塚家文書)また,端裏書に元亀4年の年紀を有する檀那村付(同前)にも「一,なかたに村」とある現在の勝山町若代字長谷に比定される... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 長谷村(中世) 鎌倉期に見える村名磐崎郡のうち文保2年2月10日の長谷寺木造十一面観音銘に「奥州東海道岩崎郡長谷村観音堂徳一大師建立所也」と見え,木造十一面観音が当村の徳一大師によって作成されたことがわかる(県史7)浜通り南部,現在のいわき市常磐上湯長谷・下湯長谷に比定される... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」