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「馬場町(近世~近代)」の関連ワード⇒ 赤田組(近世) 飯詰組(近世) 石浜村(近世) 

馬場町(近世~近代)


江戸期~現在の町名江戸期は西宮町町方の1町町名の由来は,当町の面する道で,その年の豊凶を占う競馬神事が行われたことによる寛文元年西宮町御検地帳写によれば,当町の...

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[最終更新日:2009-03-01/JLogosid:7395104]
関連項目: 赤田組(近世) 飯詰組(近世) 石浜村(近世) 

角川日本地名大辞典(旧地名編)

日本地名大辞典に収録されているものの中から、現在以前のものを再編。

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馬場町(近世~近代)

江戸期~現在の町名江戸期は八戸城下の1町で,武家地城下の北に位置し,北は堀端町,南は番町に隣接する町名は城内の内馬場に対し外馬場があったことによる「八戸藩史料」によれば,元禄4年に馬場が竣工したという馬術訓練のほか駒改めも行われた「八戸藩日記」寛文9年8月27日の条に「馬場町新屋敷割」と見え,屋敷割りがなされているはじめは御馬場方以外は当町への居住が許されなかったが,安永元年2月以後自由となった(八戸藩日記)地内には鐘撞堂がみられ,延宝2年7月に完成している(同前)同6年4月の大火では鐘撞堂も類焼した(同前)天和3年7月には「鐘撞之もの共三人」とあり,勘定頭から町奉行へ支配替となった(同前)宝暦4年4月,外馬場に300本の漆を植栽した(同前)同7年3月には火事により3軒を失った(八戸藩史料)明治初年の家数は6(国誌)明治初年~明治22年まで八戸を冠称する場合があった同8年蛇口胤親が開文舎を設け洋学の教育に当たり,同10年からは師範学校八戸分校へ引き継がれた同22年八戸町,昭和4年からは八戸市に所属明治27年の「八戸栞草」は染物師1・理髪師1を記載,メソジスト教会(のち柏崎新町へ移転)もみられる鐘撞堂は維新後蛇口家に委ねられたが(八戸聞見録),のち番町の町役場に移され第2次大戦前まで時が告げられた世帯数・人口は昭和5年27・176,同35年65・289同57年一部が内丸1~3丁目となる

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

馬場町(近世~近代)
江戸期~現在の町名江戸期は飯田城下の一町で,武家町明治8年飯田町,昭和12年飯田市飯田の通称町名となり,同27年からは同市の正式町名飯田城の北,谷川を隔てた台地上に位置する東西の町並み文禄2年入部の京極高知以来,城下町の整備が次第に進められる中で,城の北東にある馬場に通じる侍屋敷町に馬場小路と名付けたのが,町名の始めとされる(飯田万年記など)文化2年の堀氏御屋敷順覚(矢沢氏蔵文書)によれば,郡奉行・町奉行・代官・医師・御矢師など18戸の侍屋敷と同心長屋があった明治維新以後,近郷からの移住で戸数が増加し,また士族も商工業に転じ,菓子・雑貨の製造販売,そのほか経師・曲物・染物・飾職・桶職など職人仕事に従事する職人町の傾向が強くなったなお馬場の跡地は,旧士族へ禄に応じて分配されて畑地・住宅地となった大正11年,上飯田村東野にあった飯田測候所が,近くを電車が通るため町内へ移転やがて馬場町郵便局もできた仲ノ町との境には堀氏勧請の天満宮があり,戦前は縁日でにぎわった明治8年の飯田町成立以降,上馬場町・下馬場町の通称町名として存続昭和27年1~2丁目,同56年からは1~3丁目があるなお昭和22年の飯田大火で町内の西部1丁目が焼失のち焼失部分のみ道路の幅が広げられたが,ほかは旧態のため,道幅が狭くて車交通には不便である昭和61年の世帯数197・人口525...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

馬場町(近世~近代)
江戸期~現在の町名江戸期は加賀国石川郡松任【まつとう】町のうち明治5年石川県に所属同22年松任町,昭和45年からは松任市の町名近世以前からの集落四郎丸村または白丸村のあとと伝えられるが,町名が松任城あるいは松任金剣宮神事に関する馬場に由来するものかは不明天明5年の町絵図に町名がみえ,博労町西端に接し,商家の南側に百姓家が並ぶ寛政4年の書上げでは,後町通4町65軒のうちで,町方の拝領地に属す明治35年同町南郊に小松から県立農学校を新築移転同36年4月大火があり,被災66戸,全焼49軒真宗大谷派浄蓮寺は,慶長6年石川郡宮保村光明寺の僧速成が創建し,慶安4年松任へ移転,文化7年西新町から馬場町へ移ったというこの寺ははじめ楞厳寺と号したが,明治初年に浄蓮寺と改称した(以上松任町史)文久3年の戸数32,明治22年の戸数43・人口253,昭和10年の戸数91・人口412,同29年の戸数101・人口444明治12年の宅地6万1畝29歩,持主23名(同前)昭和38年県立松任高校新設同48年松任市博労【ばくろ】町の一部を編入世帯数・人口は,昭和45年111・436,同50年99・370...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

馬場町(近世~近代)
江戸期~現在の町名江戸期は奈良町の1町南方触口支配に属する江戸期は奈良町の南部に位置し,西城戸町と北風呂町を結ぶ南北通りの街区町名の由来は,「奈良曝」では,「いにしへ南都町中の支配を筒井順慶はからひとして,一族の内,筒井左馬之助を椿井町にすへ置し時の馬場の跡なり」とあるまた,「奈良坊目拙解」によれば,春日祭礼の渡馬の行装前後を整えたことに由来するとも,阿波神社の西面の前庭の馬場前にちなむとも,馬市が立っていたので馬場【うまば】と称したのにちなむともいう寛永8年の役家数20,元禄2年の家数25,竈数30うち大家20・借家10,享保14年の役家数20,家数26,竈数26うち大家21・借家5(奈良市史通史3)貞享4年の「奈良曝」には町役20軒と記され,刀屋次郎兵衛の名が見える薪能と春日若宮祭に出演する能役者や若宮祭に参勤する大名の役人衆の宿泊所を提供する宿割町にもなっている(奈良町雑録)「南都年中行事」によると,薬師堂町の御霊社の氏子区域明治22年奈良町,同31年からは奈良市に所属昭和13年の世帯数23同55年の世帯数13・人口29...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

馬場町(近世~近代)
江戸期~現在の町名・大字名江戸期は美濃国安八【あんぱち】郡,大垣城下町の1つもとは切石村のうちで,寛永期に侍町となる町名は大垣藩士の乗馬訓練の馬場があったことによる城下町西部の士屋敷地域で中級武士が居住,本馬場とも俗称家数は寛永期33,元禄期39,寛延3年23,宝暦期35(新修大垣市史)明治6年からは大垣本馬場,同17年からは大垣馬場町と称し,同22年からは大垣町の大字,大正7年からは大垣市の町名となる明治8年の地坪1万249坪(大垣市史)同33年の戸数144(新修大垣市史)大正14年の宅地面積9,412坪昭和3年の戸数166・人口740,同42年の世帯数190・人口651大正13年臨済宗江月寺が当地に創建(新修大垣市史)昭和51年,船町・西外側町・西長町との間に町界変更が行われ,現町域を確定...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

馬場町(近世~近代)
江戸期~昭和39年の町名江戸期は新発田【しばた】城下の1町武家屋敷地元禄元年屋敷割ができて成立した町名は,広小路から東北に二ノ丸に通じる馬場のあったことに由来するはじめ,責馬のあった時には,各自幟を持って見物に出るようにとの達しがあったという天保11年馬場は廃止され屋敷になった明治22年新発田本村,同34年新発田町,昭和22年からは新発田市に所属世帯数・人口は,昭和6年46・237,同12年21・109同15年一部が他門・新徒士【しんかじ】町となり,桐畑の一部を編入同39年大手町1~6丁目となる...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

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