ケータイ辞書JLogosロゴ 弘山荘(中世)


兵庫県>龍野市

 南北朝期〜戦国期に見える荘園名。播磨国揖東【いつとう】郡のうち。荘域は江戸期の中井村・広山村(以上龍野市域)・松尾村・矢田部村・阿曽村・阿曽出屋敷村・立岡村(以上太子町域)などの諸村(竜野志)。永徳2年8月6日に作成された絵図を天明8年3月に書写した弘山荘田畠実検絵図写によると,南北は8坊〜16坊にかけて,東西は15条〜19条にまたがり,中井,広山・阿曽,立岡・矢田部の3地区に集中し,鵤荘域に松尾地区が分かれて存在する(円尾光文書/竜野市史1)。つまり,鵤荘の北・西・南の三方を抱くように広がっている。また,嘉暦4年4月の鵤荘絵図では北と北西部分(広山)において弘山押領と書かれた所が7か所もあり,境相論の激しい地域であったことがうかがわれる(法隆寺文書/県史2)。したがって2点の荘園絵図の荘界はお互いに入り込んでおり整合しない。弘山荘の北東には東大市,北は北上岡,西は小宅,南西は岩見郷,南は福井荘に接している。正平8年5月22日後村上天皇は雲樹寺覚明に「弘山庄地頭職」を大興寺造営料所と定めている(雲樹寺文書/大日料6‐18)。一条家(清水谷家)の荘園で,文明4年4月2日足利義政は一条中納言実久に弘山荘領家職を安堵している(古簡雑纂6/大日料8‐3)。延元元年3月,赤松則村(円心)を攻めるために播磨に進攻した新田義貞はこの地に陣所を構え,播磨国一宮(伊和神社)に弘山安楽寺御堂で御教書を宛行っている(伊和神社文書)。また文和3年10月,足利直冬の上洛を阻止するために播磨に出陣した足利義詮も弘山八幡(阿曽神社)に翌年正月まで本陣を構えている。文和4年4月日の安積盛氏子息盛兼軍忠状によれば,このとき宍粟郡安積保を本拠とする安積盛氏と息子の盛兼は弘山御陣の警固に赴いている(安積文書)。これは荘域の中央を筑紫街道が通過し(荘園絵図には八町縄手大道とある),交通の要所となっていたためであろう。そのためか小犬丸保の公用銭運搬に関係して弘山商人の記載がみられ(壬生家文書4/図書寮叢刊),商業活動が活発だったことがうかがえる。なお,「公衡公記」正和4年4月19日条に弘山荘が見え(纂集),当荘にあたるか。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7395719
最終更新日:2009-03-01




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