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福沢村(近世) 江戸期~明治初期の村名新川【にいかわ】郡太田荘・太田保のうち加賀藩領,一部富山藩領熊野川中流の低地部に位置する近世初頭,熊野川の流路変更により,地内が分断されたが,万治3年の領替えの際,太田荘に属する南岸は加賀藩領,太田保に属する北岸は富山藩領となった村高は正保4年で1,152石余,うち田方1,053石余・畑方99石余(高付帳/県史近世下)元禄11年の富山藩領分は337石余(高辻帳/県史近世下)「天保郷帳」では村高1,152石富山藩領分は,熊野川北岸に位置したため北福沢村とも称し,牧田用水懸りで,文化2年家数2・人口119(高堂家文書)村内に本浄寺・東光寺・浄土寺・観音寺などの多くの寺院名が字名として残り,真言の大寺があったという伝承がある寺院は,曹洞宗徳林寺・真宗西派大福寺がある大福寺の過去帳は完備したもので,元禄年間から記帳されている檀家450を擁する大寺であったが,天保8年のころに「其年大疫流行,門徒百五十戸離散せり」と記されており,この年の死亡者は63名を数えるまた25名以上の死亡者を出している年が20年もあり,流行病や飢饉に村がしばしば被害を受けていたことを物語っている神社は,河川の水害をたびたび被っているため水神社住吉社を祭祀していたが,のちに合祀され神明社となるなお北岸の富山藩領内に神明社を分祀しているまた福沢は中世に玉津島社領(紀伊和歌浦)であったところから,その代官であった蜷川家が住吉社を勧請したものと思われる(大山町史)明治初期南岸は東福沢村,北岸は西福沢村と改称した |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
福沢村(近世) 江戸期~明治初期の村名新川【にいかわ】郡太田荘・太田保のうち加賀藩領,一部富山藩領熊野川中流の低地部に位置する近世初頭,熊野川の流路変更により,地内が分断されたが,万治3年の領替えの際,太田荘に属する南岸は加賀藩領,太田保に属する北岸は富山藩領となった村高は正保4年で1,152石余,うち田方1,053石余・畑方99石余(高付帳/県史近世下)元禄11年の富山藩領分は337石余(高辻帳/県史近世下)「天保郷帳」では村高1,152石富山藩領分は,熊野川北岸に位置したため北福沢村とも称し,牧田用水懸りで,文化2年家数2・人口119(高堂家文書)村内に本浄寺・東光寺・浄土寺・観音寺などの多くの寺院名が字名として残り,真言の大寺があったという伝承がある寺院は,曹洞宗徳林寺・真宗西派大福寺がある大福寺の過去帳は完備したもので,元禄年間から記帳されている檀家450を擁する大寺であったが,天保8年のころに「其年大疫流行,門徒百五十戸離散せり」と記されており,この年の死亡者は63名を数えるまた25名以上の死亡者を出している年が20年もあり,流行病や飢饉に村がしばしば被害を受けていたことを物語っている神社は,河川の水害をたびたび被っているため水神社住吉社を祭祀していたが,のちに合祀され神明社となるなお北岸の富山藩領内に神明社を分祀しているまた福沢は中世に玉津島社領(紀伊和歌浦)であったところから,その代官であった蜷川家が住吉社を勧請したものと思われる(大山町史)明治初期南岸は東福沢村,北岸は西福沢村と改称した... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
福沢村(近世) 江戸期~明治22年の村名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」