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- 風呂屋町(近世)とは
「風呂屋町(近世)」の関連ワード⇒ 赤田組(近世) 飯詰組(近世) 石浜村(近世)
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風呂屋町(近世) 江戸期~明治7年の町名伏見町のうち北組聚楽組42町の1つのち北聚楽組に所属(泰平俯見御役鑑)丹波橋通に面して,濠川に架かる丹波橋の東詰の町で,紙子屋町の西隣に位置する豊公伏見城ノ図によると,丹波橋通の北側が山田五郎兵衛,南側が桑山丹波守の屋敷の一部にあたる寛文10年山城国伏見街衢並近郊図では,濠川沿いに並木や草が描かれていて人家の影はないなお,南側は尾州大納言屋敷地のなかになる「伏見大概記」ではじめて町名が見える天保頃の軒数は6軒(伏見町誌)明治元年8番組,同5年伏見第8区に所属同7年の区画改正で,丹波橋通の北側は紙子屋町,南側は板橋2丁目となる |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
風呂屋町(近世) 江戸期~明治3年の町名富山城下本町分三十五町の1つ(町方旧記抜書/県史近世下)はじめ瀬戸物町と呼ばれていた所で,土中から瀬戸物の破片が出土したという(富山町方旧事調理/県史近世下)安永8年には家数40,うち本家25・貸家15(町方旧記抜書/県史近世下)天保12年には本家貸家数46.人口173,うち男86・女87(富山町方旧事調理 県史近世下)南側に御巡見上使脇本陣門構の宮島屋仙右衛門の家がある明治3年衣服町と改称... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
風呂屋町(近世) 江戸期~明治4年の町名島原城下の1町島原城の南に位置し,大手川より魚屋町までの南北144間・幅2間の道を挟む横町を形成新町別当(町年寄)隈部杢左衛門支配の管轄天和2年・天明3年と大火があった寛政4年の「島原大変」では眉山崩壊による土砂・津波で地内が流失する被害をうけた明治4年島原村の一部となり,字下新町となるなお,旧島原城下は明治11年島原村から分離して島原町となり,下新町は島原町のうちの1町となる... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
風呂屋町(近世) 江戸期~明治10年の町名伏見町のうち北組大亀谷組13町の1つ旧大津道の1筋西の南北路に沿い,越前町の北に位置する城下町時代は南北路の東側は町家地,西側は松平佐兵衛屋敷が広がり,その南部は空地(豊公伏見城ノ図)寛文10年山城国伏見街衢並近郊図では,南北路の両側に数戸の民家が描かれているのみである天保頃の軒数は18軒(伏見町誌)明治元年15番組,同5年伏見第2区,同7年第1区に所属,同10年大亀谷村に編入... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
風呂屋町(近世) 江戸期の俗称地名元赤坂町の西,文化8年2月類焼した跡が紀州家の囲込【かこいこみ】になった場所一帯寛永年間には,その場所は大通りで,いつの頃か風呂屋遊女がいたので,町名に唱えたと伝えられる(町方書上)明和年間以前にはすでになくなっていたらしい(紫の一本)赤坂裏3丁目・元赤坂町あたりを風呂屋町とも湯屋ともいった(画報)現行の元赤坂1丁目5・7番あたりからその西先の元赤坂2丁目のうちと思われる... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
風呂屋町(近世) 江戸期の町名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
風呂屋町(近世) 江戸期の町名金沢城下町のうち当町は大乗寺坂の下の大乗寺門前地で,風呂屋があったため,町名となったという後,当町が本多氏の下邸地内となり,町人屋敷が壊され当町は消滅したが,その後もこの地域は風呂屋町と呼ばれていたという(稿本金沢市史)... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
風呂屋町(近世) 江戸期~明治2年の町名河原町通四条下ルの町寛文10年の鴨川新堤築造と前後して町地となる江戸期には豊臣秀吉により築かれた御土居が当町西側に残存していたという町組は下中筋組の下河原三十二町組明治2年順風町となる... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」