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- 砂子村(近世)とは
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![]() | 砂子村(近世) 江戸期の村名松浦郡のうち鏡山の北方,横田川の左岸に位置するはじめ唐津【からつ】藩領,慶安元年幕府領,同2年唐津藩領,宝暦13年幕府領豊後国日田代官所支配地,寛政11年長崎奉行所支配地を経て,文政元年からは対馬藩浜崎領唐津藩領時は横田組に属す村高は,「天保郷帳」では「浜崎村之内」として119石余,「旧高旧領」では129石余文化年間頃の村高は103石余,古高86石余,反別9町余,家数39・人数153(男90・女63),馬20,村域は東西6町・南北9町(松浦拾風土記)文政2年諸職業調によると,糀屋1・紺屋2・木挽1・諸商3文政9年虹の松原と当村境に「従是東対州領」の境石柱が建つ神社は稲荷神社・厳島神社延享2年唐津藩主土井利里の初入部の際,財政難打開の目的で出迎えの商人代表を優遇したため,後の入部の儀式の席順につき争論が起こり,町人側は生活物資の不売買,百姓側は屎尿汲取拒否などの騒動となった同年町年寄と庄屋とが対決し,激論のすえ,庄屋側の勝利となったが,藩は代表庄屋を罷免して商人の面目を立てたこれを「砂子の席論」という天保末年鏡・砂子両村の間で草山の境界をめぐって争論が起こり,明治8年に再燃し,同15年に解決を見た「明治7年取調帳」「郷村区別帳」では浜崎村の枝村として見える「明治11年戸口帳」によれば「砂子村」と見え,戸数59・人口289現在の浜玉【はまたま】町大字浜崎字砂子にあたるなお,武田松之助蔵「名護屋古城記」のうち,名護屋在陣の大小名旅館記に「砂子 御枝勘兵衛」と見えるのは当地のことか(萩藩閥閲録)明治12年浜崎村に合併 |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 砂子村(近世) 江戸期~明治22年の村名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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