ケータイ辞書JLogosロゴ 三立崎保(中世)


兵庫県>東浦町

鎌倉期に見える保名淡路国津名郡のうち貞応2年の淡路国大田文に,津名郡国領として「三立崎保田廿七町百九十歩〈地頭三沢右馬允〉」とある田地の内訳は除田2町9反余・残田24町1反余ほかに畠地26町3反余があり,その内訳は除畠3反・残畠26町余地頭三沢右馬允は駿河の御家人で,正治2年梶原景時追討の賞によって当保の地頭となったと考えられ,承久の乱後は生穂【なまりほ】荘地頭も兼ねた正和元年当保の一分地頭三沢九郎経長の代官幸俊と東福寺雑掌忍覚とが,都志郷地頭職請所未進の件について相論したが,幕府は三沢氏の訴えを却下している(正和元年5月8日付六波羅下知状/九条家文書6)下って,戦国期,大永3年6月1日付道者売券(京都大学所蔵来田文書)によれば,伊勢神宮の御師八日市善兵衛尉光家が北新左衛門に売却した道者株の中に「みたさき里」があるまた,元亀3年12月には阿波三好党の篠原長房が「淡路国三立崎庄」での軍勢の濫妨を禁止している(妙勝寺文書)なお,天正14年の淡路国脇坂中務知行目録(脇坂文書)には「一,五百五拾石 三立さき」と見え,羽柴秀吉の淡路平定後は脇坂安治の知行地となった現在,東浦町釜口の海岸近くに,三立崎という高台がある
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7396501
最終更新日:2009-03-01




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