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「南浜」の関連ワード⇒ 赤田組(近世) 飯詰組(近世) 石浜村(近世)
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![]() | 南浜町(近世) 江戸期~明治22年の町名 |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 南浜(近代) 明治22年~現在の大字名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 南浜【みなみはま】 木田郡牟礼(むれ)町に所在した塩田... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典」
![]() | 南浜町【みなみはまちょう】 (近世~近代)江戸期~昭和47年の町名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典」
![]() | 南浜村(近世) 江戸期~明治22年の村名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 南浜町(近世~近代) 江戸期~昭和47年の町名江戸期は津城下の1町町人地城の東側,堀川との間に位置し,東を片浜町,西を大世古町に接する藤堂高虎が水夫・漁師を住まわせたことに由来する浜魚町が,元禄年間に魚町・北浜町・片浜町・南浜町の4町に分かれたことによって成立中浜町とも俗称される水主役や廻米出し役,難破船救助などの浜役を課せられる(明治3年町別課役取調書要領/津市史)藩は,各浜町には漁業,魚町に魚問屋・仲買を独占的に営業させたが,元禄年間には当町にも仲買頭3人・仲買16人が進出している(津市史)明治年間の戸数は同5年71,同17年124同22年からは津市に所属明治26年には市内有力魚問屋・海産物商14人のうち1人が当町に居住(県下商工人名録)昭和12年頃には仲買人8・魚商人16がいた(県の聚落景観)同20年7月の空襲で当町は焼失第2次大戦後は漁業も衰退し,同39年には堀川も埋め立てられて住宅地化した昭和29年の世帯数35,以後の世帯数・人口は,同36年49・196,同44年36・118同47年東丸之内の一部となる... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 南浜浦【みなみはまうら】 (近世)江戸期~明治9年の村名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典」
![]() | 南浜田村【みなみはまだむら】 (近世)江戸期~明治9年の村名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典」
![]() | 南浜浦(近世) 江戸期~明治9年の村名名東【みようどう】郡のうち徳島藩領御山下21か村の1つで,必要に応じて出役の義務が課せられていた村高は,寛文4年の高辻帳88石余,享保元年の高辻帳と天明7年の高辻帳も同高,「天保郷帳」で272石余,「旧高旧領」では616石余ですべて蔵入地となっているなお文化10年の阿波国村々御高都帳では598石余(民政資料)文政5年の名東郡村浦男女人数改指上帳による家数64・人数280(同前)当浦は海浜に位置し,塩田が開かれていたその塩田は,塩浜検地帳によれば天和2年に5町9反1畝あったが,寛政年間頃になると,堤防の完成などにより耕地と化した(八万村史)「阿波志」によれば,耕地について「上等水陸田雑,三十二町八段九畝,下等六町六段四畝」と見えるまた神社に若宮,寺院に新蔵院を記し,同院には「享保中造不老閣為別荘」と見える明治4年徳島県,同年名東県を経て,同9年高知県に所属同年沖浜村の一部となる... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 南浜(近世) 江戸期~明治元年の地区名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 南浜町【みなみはまちょう】 (近代)昭和7年~現在の釧路市の町名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典」