ケータイ辞書JLogosロゴ 益気郷(古代)


兵庫県>加古川市

奈良期〜平安期に見える郷名「和名抄」播磨国印南【いなみ】郡五郷の1つ加古川下流域右岸沿いで,中世の印南荘と同範囲か高山寺本は「益田」とし,訓は「末須太」「風土記」に印南郡四里の1つとして「益気里」が見え,地名は景行天皇が御宅をこの村に造ったことによるというただし,屯倉をヤケという例はない「風土記」益気里のうちに斗形山【ますがたやま】が見え,現在の加古川市升田にある升田山に比定されるが,同山は旧名を益気山という益気と益田の関係は未詳また,同書に石橋が見えるが,「釈日本紀」巻5にこれを引用し「賀古郡益気里有石橋」と所属郡を誤って引用している仁平3年7月2日の播磨国東大寺領荘々文書目録に「益気庄」が見え,寺使申文2枚,延暦2年買納墾田郡解2枚の関連文書が注進されている(東大寺文書/平遺2788)引安8年8月日の東大寺注進状案に「東大寺御封水田」として赤穂荘・垂水荘などとともに益気荘が見え,当荘は延暦2年以降東大寺に施入された益気郷の墾田を起源とするとみられる(同前/鎌遺15675)保元2年8月日の東大寺領播磨国荘園文書目録によれば,播磨国の東大寺領荘園である赤穂荘・垂水荘・粟生荘・益気荘の四荘について,承和5年の荘々惣券,同年の荘々公験,永延2年の荘々目録返抄などの関連文書が記されている(同前/平遺2899)また,治承2年4月日の公文所公文藤原家職東大寺領文書請取状には承和12年の「垂水庄・赤穂庄・益気庄田地坪々并施入帳等」が見える(同前/同前3829)益気荘は平安初期までには成立していたとみられるが,平安末期以降の動向については未詳中世には益田が見え,益気は益田と改称されたか
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7397031
最終更新日:2009-03-01




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