ケータイ辞書JLogosロゴ 山田村(近世)


兵庫県>村岡町

 江戸期〜明治22年の村名。但馬国七美【しつみ】郡のうち。慶長6年からは旗本山名氏の知行(明治元年村岡藩領)。村高は,「国高一紙」50石,「天保郷帳」113石余。慶長〜宝暦年間にかけて領主山名豊国の経済政策により,鉱山発掘が盛んとなり,当地では山田鉄として多量に産出されたという。鉄山の隆盛時には家数1,000余であったといわれ,鉄のほかに金・銀・銅の発掘も行われ,鉱業所が設けられて栄えたと伝える。往時を偲ばせる寺屋敷・川原町・向町・段町などの地名が残る。宝暦3年から諸国私領地の金・銀・銅・鉄山はことごとく幕府の支配とされるという風聞があり,当村では鉱石をすべて埋め隠したといわれる。鎮守の湯弥神社は,大同年間今の観音堂の地に湯が湧き出たことから湯弥権現社と称するようになったという(増補七美郡誌稿)。盛鉄山宗寿院銀正寺は文禄年間の創建で,鉱山が廃されてから衰えて宝暦5年廃寺。当村の支村に小城村があり,昔は小さな砦があって集落を守っていたことが地名の由来という。同村の中山氏はもと播磨国の赤松氏に仕えていたが同氏が滅び,同国中山村から来住したといわれ,また,大同年間中山藤蔵という人が当地に流寓してから次第に栄えた家であるともいう。小城村の神社は天保9年中山浅八が勧請した祇園牛頭天王など(同前)。同社は明治2年村岡藩士大坪真人によって八坂神社と改称,さらに同14年兵庫県官吏により荒御霊社と改称(同前)。明治11年山田校創立,当村と境の2か村が就学区域。同22年射添【いそう】村の大字となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7397281
最終更新日:2009-03-01




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