ケータイ辞書JLogosロゴ 吉河荘(中世)


兵庫県>吉川町

 鎌倉期〜戦国期に見える荘園名。播磨国三木郡のうち。吉川とも書く。弘安7年正月29日の長吏御教書に「神領吉河庄事……二季御神楽役并勅院事符案等,無懈怠可致可懃仕,御年貢以下事,可為中分也」と見え,この時吉河荘は石清水八幡宮領で,下地中分がなされている(榊葉集/鎌遺15061)。当荘は皇室料荘園として成立したとみられる。その後,鎌倉期に入ると,吉河荘は分割される。嘉元4年6月12日の昭慶門院御領目録によれば,当荘は歓喜光院領として吉河上荘・吉河下荘・竹原村に三分され,吉河上荘は年貢2,500疋で左衛門督局の知行,吉河下荘は年貢3,000疋で法性寺三位為信の知行,竹原村は年貢2,500疋で法性寺前中納言雅藤の知行となっていた(竹内文平氏所蔵文書/鎌遺22661)。これ以後,当荘は大覚寺統に伝領される。なお,弘安8年6月2日の範親書状によれば,「矢野庄并吉河上庄文書等」は愛王殿に譲るとしている(白河本東寺文書/鎌遺15602)。当荘の領家職については,弘安6年4月日の安嘉門院庁下文によれば,吉河上荘内竹原村は大報恩院が領家であった(大報恩院文書/鎌遺14847)。その後当荘全域の領家職が大報恩院領となったと思われ,応永16年12月23日の大報恩寺領目録に知行分として「吉河庄〈付竹原村〉」が見えるが(大報恩寺文書/大日料7‐4),応永18年5月2日の同目録案では,竹原村を含む吉河荘はすでに不知行分とされている(壬生家文書/図書寮叢刊)。また,当荘の領家職は万里小路家も有していた。万里小路時房の日記「建内記」正長元年6月27日条によれば,崇明門院祺子内親王が吉河荘を知行していた際,時房を高祖父万里小路仲房が拝領して以来,すでに100余年を経たという(古記録)。また,同書正長元年5月14日条によれば,吉河下荘・竹原村はこれ以前に地頭と領家の間で下地中分され,吉河上荘についても万里小路時房が下地中分を望んでいた(同前)。これ以後の万里小路家領は,吉河上荘のうち大塚村・永谷村・上吉川村・下吉川村・竹原村の半分および重末名・行恒名で,嘉吉元年5月14日大塚村以下4か村の代官に稲田光増が補任され(建内記3/同前),竹原村代官職は嘉吉元年5月25日宝伝寺智旭に補任された(同前3/同前)。文安元年5月14日万里小路家は守護代の横難を免れるため,当村の半分代官職を斎藤丹後入道良英に与えている(同前7/同前)。吉河上荘の地頭としては,藤田四郎五郎の名が知られ,重末名・行恒名については,地頭藤田四郎五郎・公文畑三郎左衛門が見える。一方,吉河下荘は法性寺家が領家と推定される(建内記嘉吉元年9月24日条/同前)。また戦国期には,当荘内宗源名は後藤氏の所領となっていた(後藤文書/西脇市史史料篇)。当荘は上荘・下荘に分かれるが,上荘はほぼ現在の吉川町,下荘は三木市の口吉川を冠称する地域に比定される。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7397441
最終更新日:2009-03-01




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