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横町(近世)


 江戸期~明治22年の町名...

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[最終更新日:2009-03-01/JLogosid:7397446]
関連項目: 赤田組(近世) 飯詰組(近世) 石浜村(近世) 

角川日本地名大辞典(旧地名編)

日本地名大辞典に収録されているものの中から、現在以前のものを再編。

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横町(近世)

江戸期~明治15年の宿名多摩郡柚木【ゆぎ】領八王子横山15宿の1つ幕府領甲州街道を八日市宿・八幡宿境で北に折れる八王子日光往還に沿った宿場であるところから名づけられたと伝え,「新編武蔵」には「八幡宿と八日市との間を,北の方へ横ぎりたる町なればこの名あり,或は大横町とも大善寺横町ともいう,これ日光山(栃木県)への街道なり」という検地は隣接の宿と同じく慶長7年,以来寛文7年・元禄9年・寛保1年・享保17年に実施元禄15年の宿高は54石余,反別5町8反余,戸数89,うち本百姓50・水呑百姓35,人口301,馬3匹職業別では焼餅・饅頭・ところてん・豆腐・草履・わらじ等の商買人35人・大工5人・畳指2人・千人同心15人,「耕作之間六才市日に商仕渡世送り申候者」28人(新野家文書)人口は時代とともに増加寛保3年には戸数100戸,うち高持百姓43・借家水呑百姓53・寺2・陰陽師1・定使1,人数332人,馬2匹天保8年100戸・397人となり,職業も前記のほか質屋渡世人3が新しく増加,文久5年調べでは,戸数132・人口453となっている甲州街道横山・八日市宿に加宿として出役寺社に大永3年創建と伝える曹洞宗大横山福金院,嘉元2年創建と伝える時宗四木山宝桂寺持出世稲荷社がある(新編武蔵)明治元年神奈川県,同11年からは南多摩郡に所属同15年八王子大横町となる

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

横町(近世)
江戸期の町名善光寺町の一町で,善光寺町の中心をなす八町の一つ善光寺大本願の南に位置する東西の町で,東は岩石町,西は阿弥陀院町(栄町)と接する町名の由来は,善光寺門前の大門町と横(東西)に交わることにちなむという当町の庄屋は東之門町も管轄した大門町と横町の交差点が市頭,つまり市の起点で,今も長野市の元標はここにある市神も現存横町は繁華街の一郭であった天和2年の善光寺町市立日書上(県史近世史料7‐2)には,東横町と西横町に分かれて見え,すでに江戸前期から当町は東横町と西横町に分かれるようになったただし,横町一町として記載される史料もあり,明和元年には人数171,うち男92・女79(長野市史)弘化4年の善光寺大地震での死者は東之門町も合わせて206人(同前)嘉永6年善光寺八カ町数改留によれば,数20,うち大屋7・借地12・店借1(県史近世史料7‐2)元治元年の人数は,東之門前を含めて479(長野市史考)なお,明治10年代以降には東横町と西横町が合併して再び横町と称するようになり,以後は長野村・長野町のうちの通称町名となり,現在も長野市長野のうちの通称町名として横町があるなお,明治31年には285人,大正5年には250人,昭和62年には48世帯・131人...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

横町(近世)
江戸期~明治9年の町名中通り南部,阿武隈【あぶくま】川上流と谷津田川にはさまれた地に位置する白河郡のうち白河藩領小峰(白河)城下郭外のうち村高は,古領高長では561石余,「天保郷帳」595石余,「旧高旧領」598石余なお「天保郷帳」「旧高旧領」には横町村とある城の横町門口にあり,城の南北にのびる奥州街道筋の町長さ182間・幅5間4尺,中に渠がある化政期の家数112軒鎮守は城の東にある大村の鹿島神社町の西側にある浄土宗専念寺は慶長年間の創建(白河風土記)白河藩主丹羽公以来のだるま製造を行う店がある藩主松平定信の命により,南画家谷文晁が図案化したといわれる「白河鶴亀松竹梅だるま」は市神祭で売り出され現在に至り,瓦製のだるま原型が19種類現存している町の東側に横丁が2条あり,1つは番士小路に,1つは下町に通じる白河七小路の一つといわれる裏町の番士小路は長さ129間・幅3間で,士屋敷の所有であり,他国人の往来を禁止した横町の南続きの馬町は長さ84間・幅4間,家数35軒(白河風土記)明治5年の戸数171・人口834明治7年の遠藤家文書によれば,年貢町・八百屋町を加えて横町村とある明治9年天神町ほか9か町村および学田新田の一部と合併して白河町となる...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

横町(近世)
江戸期~明治11年の町名江戸期は鳥羽城下五町の1つ鳥羽城の西方に位置し,大里町・本町の両町と中之郷・藤之郷との中間に位置する地名の由来は,両町から外堀に沿って横に通じた町であることにちなむ「志陽略志」によれば,南北2町54間,町並みは縦横に200余軒の町家が軒を並べていたが,両町に比べて船小宿を営む家がいくぶん少ないまた,嘉永3年の鳥羽五人組名前帳では154軒のうち苗字を持つのは薬種商を営む庄屋と楯役の2人である瀬巴山【せばやま】稲荷・西清水稲荷の両稲荷社があるが,明治40年大山祇神社に合祀された天英山光岳寺は三河国豊川妙厳寺末,鳥羽城主稲垣家の菩提寺で,享保11年三河刈谷から移建された五趣山済生寺は安斎谷にあり知恩院末,延宝8年空庵となっていた法泉庵を再興し,済生寺と改めた同所にある松栄山天真寺は日蓮宗京都妙覚寺末,寛永19年に創建され初め長福寺,長寿寺と称し,のち現在名に改まった同寺には平重衡ゆかりの後朝【きぬぎぬ】の琴が蔵されていたが,今は西念寺にある安斎谷は九鬼氏の頃,金銀宰加藤安斎が住んでいたことによる城郭へ通じる3つの橋の1つ横町口門橋があった明治11年鳥羽町の一部となる現在の鳥羽3丁目にあたる...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

横町(近世)
 江戸期~明治22年の町名...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

横町(近世)
江戸期~明治6年の町名前橋城下町人町の1町貞享元年の「前橋風土記」(県史料集1)に見える下之町が竪町・横町・桑町に分かれて成立榎町の西に続く東西の町で,南は紺屋町・桑町,西は竪町,北は板屋町南北の竪町に対して東西の町並みのため横町と呼ばれた元文4年の竪町水帳写(古屋家文書)の末尾に下之町分5町15歩高のうち高30石6斗1升8合・1町9反3畝8歩が横町とある文政12年の諸職人元帳によれば,桶師1・畳刺1・鍛冶2・大工3・屋根葺1が見え(勢多郡誌),割合に職人数が多いなおうち桶師は「棟梁申付候に付役銀免」と記されている戸口は,明和8年1月12日の大火記録(松平藩日記)で総家数46・竈数50で,全焼しており,土蔵4や御家人1も焼けている寛政2年の家数人別書上帳(前橋市立図書館蔵文書)では,組数5,家数37,竈数38うち家主36・借家2,人数は男70・女57,寺社1,持馬5文政4年の前橋総町絵図(勝山氏蔵文書)では,組数5,家数48,面積1町9反余明治6年横山町と改称...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

横町(近世)
江戸期~明治14年の町名若狭国大飯【おおい】郡のうち高浜村の町方小名の1つ幕末頃の高浜村町絵図(高浜町誌)によれば,子生【こび】川沿い,村の南東端に位置し,薗部村との境から夜番所まで東西に36間,番所のある辻から南へ砕導まで4町59間とある家数などは,貞享元年の高浜万覚帳(時岡家文書)によれば,屋敷数55うち役屋敷30,本地子分5石5斗7升・夫代5斗5升9合・明屋敷地子1斗6升,計6石2斗8升9合のうち3斗8合は小物成免除,町肝煎給分の銀66匁は44軒が1軒1匁5分ずつの負担などとある享保2年は54軒(高浜町誌)天明5年の戸数64,人口293うち男148・女142・僧3,ほかに舞々の戸数10,人口42うち男20・女22も記される(常田家文書)式内社佐伎治神社が南方に鎮座寺院は,康安元年開基の真言宗仁和寺末竜蔵院,天正年間受益首座の開基の臨済宗相国寺派南陽庵,康永年間開基の同派久昌寺明治14年宮崎町の一部となる(高浜町誌)...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

横町(近世)
江戸期~明治初年の町名江戸期は倉吉陣屋町の1町陣屋町の北部,南は魚町,西は研屋町に接して位置する上横町と下横町に分かれる町名の由来は,ほかの町が東西に並ぶのに比べて南北に町並みができていたことからと考えられる寛延年間の倉吉御陣屋図によると,上横町の間数82・竈数57,下横町の間数48・竈数22上井方面から入る倉吉往来の入口に位置し,町口は枡形となっており番所が置かれた天保5年の久原山口両御番所出入荷物改帳控によると,土屋徳祐が古手物2個・油反古2個を出荷し,小間物43個を入荷しており,須屋元三郎は木綿18個(1,440反)を出荷し,油屋五平が煙草5丸を入荷している(倉吉市史)明治初年堺町と改称し,上横町は堺町1丁目,下横町は堺町2丁目となる...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

横町(近世)
江戸期~明治初年の町名諫早【いさはや】市中の1町諫早領主邸(御屋敷)の東方に位置する大手口から北に通じる町並み地名の由来は下町通りとの間を横に結んだためであろう下町別当の管轄下にあった明治初年(3年か)東町字西下町の一部となるなお,明治11年には諫早町2丁目のうちとなり,同22年以後は諫早町乙字西下町の一部をなした通称町名としては大正12年頃まで存続し,その後数年以内に町名を本町(通称町名)とかえたようである明治19年本明川対岸の岡御蔵跡付近との間に新橋(木造)が架設され,岡町から横町を経て田町に至る南北の町並みがつながり,以後漸次諫早町の中心街の一部を形成するようになった現在の諫早市本町の一部にあたる...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

横町(近世)
江戸期の町名赤穂城下の1町城下町人町の南西部花岳寺から出河原町までの南北2町8間の町筋町名は,大手門前から北に向かう町筋を本町筋(通り町筋)といったのに対し,その西横の町筋であることに由来する歴代藩主の花岳寺墓参道として城下唯一最大の4間の道幅をもつ加里屋町会所(間口10間・奥行13間半)のほか町家30軒(うち貸家8)の半数が有力町人の屋敷であったため,元禄14年の赤穂城請け取りの幕府代官石原新左衛門は柏屋(間口10間・奥行35間)を,岡田庄右衛門は泉屋(同19間・同16間半)を宿所とした森氏時代には札座が置かれた明治以降は酒造場・郵便局などのほか諸店があった現在の赤穂市加里屋の一部...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

横町(近世)
江戸期~明治8年の町名高遠【たかとお】町のうち高遠城三の丸の乾堀近くを南北に通る道沿いの武家町寛永年間の保科家高遠旧図に町名が見える長さ83間「木の下蔭」には「搦手の方,いにしへ町なるよし,衆城図にも此かた町とあり,中頃いまの町と変りたると見ゆ,今侍屋敷の小路小路を荒町或は横町といへり」とあるが,搦手門前の道路に直交する横の町であることから,横町の町名がつけられたと思われる上級武士の屋敷があり,南端坂下の下夕町と接する所には枡形を設け,高遠城南東の守りとなっている安政3年の家中調べ(内藤十五世紀)で11戸あるが,廃藩後半数は転出した明治8年東高遠町の一部となる...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

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