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- 吉野村(中世)とは
「吉野村(中世)」の関連ワード⇒ 赤田組(近世) 飯詰組(近世) 石浜村(近世)
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![]() | 吉野村(中世) 室町期~戦国期に見える村名県東部,芝川右岸の大宮台地上に位置する足立【あだち】郡のうち長享3年4月25日の古河公方足利政氏判物に「足立郡大宮郷内吉野村」とあるのが初見これは下野【しもつけ】国の渋垂小四郎が永享の乱中強いて入部された所領を具申し,政氏がこれを証判したものである同じく永正2年2月15日にも父政氏と対立していた足利高基もこれに証判しており,当地が渋垂氏の本知行分であったことがわかる(水戸城北四院文書)また元亀2年3月3日の春日弥吉手形があるが,これによると春日弥吉が「吉野村あれち」の開発を「よしの村名主十三郎」に命じて3年間の年貢免除と,その残りの年貢高について定めている(武文)近世には原村または吉野原村と称した現在のさいたま市吉野町1・2丁目付近 |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 吉野村(中世) 鎌倉期に見える村名桃生【ものう】郡のうち河北町飯野付近と推定される「山内首藤家文書」文永7年6月13日付関東下知状が初見山内首藤時業の文応元年7月8日以下の譲状に任せて,鎌倉幕府がその子亀鶴に安堵した所領の中に「陸奥国桃生郡内吉野村地頭職」というのがあった「余目記録」の中にも「桃生山内」とあって,山内首藤氏は桃生郡における有力地頭であった吉野村はその中で,地名のはっきりしている山内所領である延喜式内社桃生郡六座の1つと伝える飯野山神社が北方の山中に鎮座している... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」