ケータイ辞書JLogosロゴ 今井村(近世)


奈良県>橿原市

 江戸期〜明治22年の村名。高市郡のうち。今井町とも称した。はじめ幕府領,元和5年郡山藩領,延宝7年から幕府領。村高は,「文禄4年御検地帳之写」272石余(今井家文書),「慶長郷帳」330石余,「寛文郷帳」同高,「元禄郷帳」412石余,「天保郷帳」413石余。寛永6年の年貢率は10割で,村高が年貢高であった(辰年納米同払方帳/今井家文書)。ほかに諸役赦免の約米として毎年銀50枚,年頭など年間3度の御礼銭38貫余を納めた(和州高市郡今井村之覚)。当村は道場としてあった称念寺を中心として発達した寺内町で,南・西・東・北・今・新町の6町の町割を敷いていた。中世の土居を残す環濠集落。また郡山藩領のとき,郷中並とされ,今井町と称することを許された(同前)。町場として元和年間には称念寺の今井兵部・今西・尾崎・上田といった町の有力者が惣年寄役を預かった(覚書・尾崎家文書)。延宝年間の家数1,082・人数約4,400,正徳4年の家数1,000・人数4,400。宝暦10年の家数912うち家持189・借家723,人数3,444(今西家文書)。元文5年の魚屋12・嫁入道具屋2(同前),天保8年の酒造4(上田家文書)。鎮守は春日大明神(現春日神社)。例祭は旧暦9月25・26日。産土神祭と称し,町々より檀尻や引物が出たという(今井町明細記)。寺院に天台宗多武峰末寺の常福寺がある。観音堂・役行者堂・庫裏の堂宇を有した。慶長18年の棟札が残っている。本尊は十一面観音。大和西国三十三か所巡礼の13番札所で,御詠歌は「あさゆうにほとけのちかいわきてなおいまいにむすぶ水のすずしき」。ほかに浄土真宗本願寺末の称念寺がある。天文2年道場として創立していたと見え,大和真宗の拠点の1つであった。江戸期は真宗西本願寺派五カ所御坊の1つで,触頭を勤めた。ほかに同宗興正寺末順明寺が寛永3年新賀村より移された。称念寺を南御坊と称するのに対し,当寺を北御坊と称した。新町には浄土宗知恩院末の西光寺がある。「今井町明細記」によれば毎年2月22日に聖徳太子御忌の行事があり,餅まきなどが行われた(天理図書館所蔵文書)。日蓮宗蓮妙寺は,正慶2年創立し,慶長〜寛永年間の不受不施事件に関係し,遠島流罪にあった。早くから町場化したため,惣年寄の自治体制がしかれた。延享3年の覚によれば町内はすべて囲いがされ,9か所の門が設けられ,門番が開閉した(今西家文書)。村内今西家の民家は珍しい八ツ棟と呼ばれる造りで,棟札より慶安3年建造が知られる。「大和巡日記」によれば今井の町は「甚宜町柄也,大和の国中にて富人多」と記される。慶応2年「日次謾録」によれば今井の米屋が打毀にあった(竹園家文書)。「大和志」によると土産に飯鮓があった。幕末には島本周斎・森田平三郎によって寺子屋が開かれた(日本教育史資料)。神仏分離期には常福寺が,無住無檀のため廃寺(旧奈良県廃寺参考)。明治8年文明舎が西光寺に開校。同9年には今井・小綱【しようこ】・四条・地黄【じお】・妙法寺の5か村を校区として今井小学校が開校,同18年小綱・今井の2か村が校区となった。同21年今井尋常小学校開校(小学校沿革史)。明治13年高市郡49村の連合戸長役場設置(橿原市史)。同15年頃の戸数669・人口2,448,牛1・馬2,田14町余・畑5町余,物産は米・麦・大豆・粟・甘薯・醤酒・油・木綿,民業は農業専業100戸・商業200戸・農工兼業375戸(町村誌集)。同21年の戸数683・人口3,890(小学校沿革史)。明治20年大阪鉄道を大阪南区の御蔵跡町より当町まで通す計画がたてられ,その敷設免許が下りて工事に着手(橿原市史)。同22年今井町の大字となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7398087
最終更新日:2009-03-01




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