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- 興田(古代~中世)とは
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興田(古代~中世) 平安期~室町期に見える地名城上郡のうち現在の天理市柳本町から桜井市大西付近に至る地を指称したとみられる①興田南荘興福寺雑役免(進官免)荘園延久2年の雑役免帳に「興田南庄十三町三反三百歩」とある荘田は公田畠12町7段300歩と不輸田畠6段からなり,不輸田畠の内訳は内匠寮田5段・法興院田1段城上郡18条2里・19条1里に合計21か坪がほぼ一円的に分布するこの坪付は現在の桜井市大西付近にあたるまた同じく雑役免帳に十市郡東郷のうちとして「興田南庄和常永一町七反小 公田也」ともあるこちらの荘田は十市郡東郷19条4里の4か坪に分布するが,同条里は城上郡19条1里と同一で,現在の桜井市大西にあたる室町期にも興福寺修理目代が知行する荘として存続した(経覚私要鈔文明元年9月15日条)②興田南荘大乗院門跡領応永6年正月18日付興福寺段銭段米帳(春日大社文書4)に城上郡の大乗院方荘園として「興田南庄 七町」と記すまた寛正6年の将軍家御下向寺門段銭帳(成簣堂大乗院文書)には「興田南庄十五丁□反余,門跡帳面在之書加之」とあって,寺門・門跡の段銭などを賦課された③興田北荘興福寺雑役免(進官免)荘園延久2年の雑役免帳に「興田北庄十六町九反二百六十歩」とある荘田は公田畠13町2段260歩と不輸免田畠3町7段からなり,不輸免田畠の内訳は大神神田5段・大蔵省田2町7段・穴師社田5段城上郡15条3里,16条1~3里,17条2~4里にわたる広い地域の合計33か坪に散在・分布したこの坪付は現在の天理市柳本町付近にあたる |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
興田(古代~中世) 平安期~室町期に見える地名城上郡のうち現在の天理市柳本町から桜井市大西付近に至る地を指称したとみられる①興田南荘興福寺雑役免(進官免)荘園延久2年の雑役免帳に「興田南庄十三町三反三百歩」とある荘田は公田畠12町7段300歩と不輸田畠6段からなり,不輸田畠の内訳は内匠寮田5段・法興院田1段城上郡18条2里・19条1里に合計21か坪がほぼ一円的に分布するこの坪付は現在の桜井市大西付近にあたるまた同じく雑役免帳に十市郡東郷のうちとして「興田南庄和常永一町七反小 公田也」ともあるこちらの荘田は十市郡東郷19条4里の4か坪に分布するが,同条里は城上郡19条1里と同一で,現在の桜井市大西にあたる室町期にも興福寺修理目代が知行する荘として存続した(経覚私要鈔文明元年9月15日条)②興田南荘大乗院門跡領応永6年正月18日付興福寺段銭段米帳(春日大社文書4)に城上郡の大乗院方荘園として「興田南庄 七町」と記すまた寛正6年の将軍家御下向寺門段銭帳(成簣堂大乗院文書)には「興田南庄十五丁□反余,門跡帳面在之書加之」とあって,寺門・門跡の段銭などを賦課された③興田北荘興福寺雑役免(進官免)荘園延久2年の雑役免帳に「興田北庄十六町九反二百六十歩」とある荘田は公田畠13町2段260歩と不輸免田畠3町7段からなり,不輸免田畠の内訳は大神神田5段・大蔵省田2町7段・穴師社田5段城上郡15条3里,16条1~3里,17条2~4里にわたる広い地域の合計33か坪に散在・分布したこの坪付は現在の天理市柳本町付近にあたる... |
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